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にしかわ ふみこ

西川文子

にしかわ ふみこ

1882.4.2(明治15)〜 1960.2.23(昭和35)

明治・大正・昭和期の婦人運動家、
女性参政権運動の先駆者

埋葬場所: 18区 1種 19側

 岐阜県安八郡南杭瀬村出身。旧姓は志知(しち)。庄屋の志知伊左衛門の二女として生まれる。
 郷里の高等小学校卒業後、1894(M27)京都府女学校本科入学、補修科を経て、1900 新設の同校国漢専攻科に進み、'03 卒業。在学中、歌人で国学者の猪熊夏樹の指導をうけたが、旧風の学問や歌風にあきたらず、与謝野晶子(11-1-10-14)や新詩社の作風にひかれていく。晶子の妹の里子とは女学校以来の親友で、里子はのち文子の兄の志知善友と結婚した。
 また学校卒業間近、ビラで知った足尾鉱毒問題演説会に出かけ、ヒューマニストで平民社とも関わりを持つ松岡荒村を知る。1902 秋に松岡荒村と結婚。結婚を機に社会への目が開かれた。松岡荒村は鋭敏な感性と文明否定の論理を母体に、社会主義文学を開拓をした先駆者。詩的社会主義の創作を行い、詩、小説、評論の分野にわたって実践を試みました。文明呪岨から最初の「君が代」批判論者として著名であったが、'04.7.23 松岡荒村が結核により25歳の若さで亡くなり、文子も22歳の若さで未亡人となる。文子は松岡荒村の意志を継ぎ「社会主義に献身する覚悟」で平民社の堺利彦を訪ねた。
 平民社は社会主義陣営の中心として『平民新聞』を発行し、非戦論、反戦論を展開、社会主義婦人演説会を毎月一回開催するなど、女性問題についても極めて熱心であった。文子は平民社で社会主義婦人講演会に参加、演説をし、平民新聞の宣伝チラシを配布したり、同志の世話をするなど活動を支える。
 日本で最初に治安警察法第五条改正運動に取り組んだのも、文子を含む平民社の女性たちであった。'05.1 文子は今井歌子、川村春子らと、460名の署名とともに治安警察法第五条改正の請願書を衆議院に提出。文子はこの運動に関してはパイオニアである。
 「治安警察法」とは労働運動を取り締まる為に、1900.3.10 第2次山縣内閣にて制定された法律である。この法律の第5条では、軍人及警察官、神職僧侶や教員などと共に、女性が政党などの政治的な結社へ加入すること、また政治演説会へ参加し、あるいは主催することを禁ずる旨が書かれている。文子を筆頭とした女性らの請願運動により、'22.3(T11)女性の集会の自由(政治演説会に参加ないし主催する自由)を禁止した第5条2項の改正に成功した。しかし女性の結社権を禁止した第5条1項は残されたため、婦人団体を中心に、治安警察法第5条全廃を求める運動がその後も続けた。なお終戦後の '45.11.21(S20)「治安警察法」そのものが廃止となった。
 この治安警察法改正の請願書を提出した翌月、'05.2 平民社の結成メンバーであった西川光二郎(同墓)と再婚。しかし、その5年後、'10.10 夫の光二郎が社会主義陣営を離脱して道徳修養運動、精神運動を行う社会教育家に転進した。夫の新しい出発に協力する忙しい日々の中で、文子は「家庭の仕事に没頭し」「一生懸命すればするほど」「毎日消えていく仕事」に、これでよいのかと疑問を持つ。そして、'13.5(T2) 文子は、木村駒子、宮崎光子と女性の自覚を促し職業を奨励し、家庭の立憲的組織化と女性倶楽部の設立などを抱負として「新真婦人会」を創立。演説会を行い、機関誌「新真婦人」創刊。この機関誌は明確に女性問題・女性解放を見据えた評論雑誌として注目された。'20 婦人社会問題研究会結成に参加。大正デモクラシー期の女性運動の息吹を十分に伝え、特に著書『婦人解放論』は多くの人たちに希望を抱かせた。
 戦後、'57 堺為子、小口みち子らと共に女性参政権運動の先駆者として表彰された。享年77歳。

<日本女性人名辞典>
<市民・社会運動人名事典>
<新婦人協会の人びと>


墓所

*墓石前面「西川光二郎 文子 墓」、裏面「昭和十六年二月 西川満 建之」。右面は光二郎と文子の没年月日が刻む。墓石と並んで左側に「西川光二郎先生墓誌」と題した碑が建つ。



第425回 女性参政権運動の先駆者 治安警察法第五条改正運動
西川文子 お墓ツアー


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