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ももせ かずいち

百瀬一一

ももせ かずいち

1870(明治3)〜 1941.11.11(昭和16)

明治・大正・昭和期の海軍軍医大佐、医師

埋葬場所: 12区 1種 7側

 信濃国(長野県)出身。1892.8.17(M25)海軍軍医学校を卒業。1894少軍医、1897.12.1中軍医を経て、1905.1.12軍医少監に昇進。軍医中監になり横須賀海軍病院付に着任して、慢性腸窒扶斯菌保有者の治療法の研究を行った。海軍軍医学校などを歴任し、軍医大監(軍医大佐)に進み、舞鶴海軍病院副院長を最後に退官。
 軍医時代にドイツに派遣された時に「ツベルクロストローミン」という結核のワクチンを発見。脱蝋樣質結核菌を応用したこのワクチンによって、結核菌そのものを薬で殺して使うものである(結核免疫療法並血清検査法)。
 '15(T4)大阪堺に「百瀬結核研究所」(百瀬結核病院)を開所し所長になり、この結核ワクチンの日本における専門家となる。全国各地から患者が殺到した。'17西宮に転居。薬は培養し全国的に売りさばき、大きなドイツ洋風の家を建て、診療所として「起生園」(きしょうえん)と名付けた。また新川に起生橋をかけ往来をスムーズにさせた。医学博士。享年71歳。

<講談社日本人名大辞典>
<日本海軍士官総覧>


墓所 百瀬家

*墓石和型「百瀬一一之霊位」、裏面「昭和十七年十一月 百瀬映一 建之」と刻み、その右側に妻「百瀬こう 昭和四十八年十二月五日召天 九十五才」と刻む。左面「法謚 通神院慈航智海大居士 昭和十六年十一月十一日歿 享年七十有二」と刻む。墓所左側に十字架が刻む洋型「百瀬家 主の慈しみは永遠(詩編117)」と刻み、裏面は墓誌となっている。

*妻は こう(中野槙太郎の3女)。3男2女を儲け、長男は百瀬暎一(1903-1992 ヤコブ 同墓)、二男は百瀬凱二、三男の百瀬仁文は早死。長女のカズは荒井實(11-1-3)に嫁ぐ。二女の紀子は大石二郎に嫁ぐ。荒井實とカズの次男は産婦人科教授の荒井清(11-1-3)。


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