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みやもと たけのすけ

宮本武之輔

みやもと たけのすけ

1892(明治25)〜 1941(昭和16)

大正・昭和期の土木事業家

埋葬場所: 22区 1種 76側

 愛媛県松山市の沖合い二キロにある興居島(ごごしま)出身。島内では相当の旧家だったが、父の代に生家が没落し、中学校への進学を諦め、商船のボーイになった。 しかし、成績が優秀だったことと、異父兄(武之輔の母が最初の結婚で儲けた息子)の努力で島内の資産家の援助を受け東京の中学校に進学した。ここでも成績抜群で第一高等学校に無試験で入学。校長は新渡戸稲造(7-1-5-11)。 同級生に芥川龍之介、菊池寛(14-1-6-1)、久米正雄、後に大河津自在堰を設計する岡部三郎が同級だった。
 中学時代は小説にのめりこみ、読むだけではなく、自ら執筆し将来は文学者を目指そうと志したが、異父兄に大反対されたこともあり作家の道を断念した。 そのため進学を早稲田大学英文学から東京帝国大学土木工学へ変更し入学、1917(T6)首席で卒業、内務省に入省した。
 同年10歳年下のまだ16歳の女学生だった中路ゆき子と婚約。利根川第二期改修事務所の安食工場勤務を経て、'19内務省技師に任官。荒川放水路の小名木川閘門の設計施工を命じられる。 当時、新潟県信濃川下流域の洪水を防ぐため、大河津分水の建設が進められており、'22に通水。ところが、わずか5年後の'27(S2)には、日本海に注ぐ水量を調節する自在堰が陥没してしまったため、内務省は威信回復をかけていた。 そこで日本人でただ一人パナマ運河の測量設計に携わった経験を持ち、新潟土木出張所長を務めていた青山士(あおやまあきら)の下に宮本が1927〜31(S2〜S6)にかけ信濃川補修事務所主任として派遣された。 分水町の大河津分水可動堰 (せき) の設計と施工の陣頭指揮をとり、堰の開閉方法を変えた可動堰を建設、'31完成。この堰は70年近くたった現在も現役として活躍している。
 '28コンクリートに関する研究で工学博士。'36現在なお河川工学の原典とも言われる「治水工学」を著す。 また、関係各省の青年技術者を集めて'20(T9)「日本工人クラブ」を発足させ、技術院の創設を提唱し、現在の科学技術庁の母胎を作った。
 晩年は災害査定官として全国の風水害地域を駆けめぐり、災害復旧工事関連の業務に尽力した。享年56歳。

<大河津分水路の歴史など>


*墓所内墓石右面に伯爵の有馬頼寧書で簡略歴が刻む。宮本靖建立。


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