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みやもと ちゅう

宮本 仲

みやもと ちゅう

1856(安政3)〜 1936.1.4(昭和11)

明治・大正・昭和期の医師
(正岡子規の主治医)

埋葬場所: 22区 1種 37側 3番

 東京帝国大学別課卒業。医師として開業。正岡子規の主治医として著名であり、1893(M26)から子規が没する1902.9.19まで往診した。
 1889子規は肺結核と診断されていたが、日露戦争の従軍記者として活動をし、1895帰国船上で大喀血して重態となった。子規は入院療養をした後、同年に上京する。 この頃より歩行に困難を来すようになり、1896宮本仲は結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断した。 以後、子規は床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった。
 子規の母の八重と妹の律は上京して子規と同居し看護をした。この様子を宮本仲は「子規も偉い人間には相違ないが、御母堂御令妹の彼に対する奉仕と愛ともまた偉いものだった。 我々医家として毎日多数の病家に出入するが、子規の家の如きところはそうそう見当たるものではない。御母堂特に御令妹は十分表彰されてよい方だと思う」と語ったという。 特に妹の律の看護に対して、「女の中の役、細君の役、看護婦の役と、朝から晩まで一刻の休みもない」心尽くしの看病ぶりを激賞した。
 1899夏頃より子規は座ることさえ困難になり、寝返りも打てないほどの苦痛と戦いながら、俳句・短歌・随筆を口述も含め書き続けた。 この苦痛を和らげるために、宮本仲は一日に五回も往診して麻痺剤(モルヒネ)を処方した。 子規は3年間寝たきりであったが、死の直前まで住み慣れた家で、仕事をすることが出来たのは、母と妹の看護と、主治医の宮本仲の影のサポートがあったからである。
 宮本仲はその後も開業医の傍ら、医学博士として東京帝国大学医学部教授も務めた。享年79歳。

<「坂の上の雲」から見た明治人の生き様など>


宮本仲妻幸子之墓

*墓石は和型「宮本仲之墓」。裏面に宮本仲の没年月日と享年。享年は八十と刻む。左面は墓誌となっている。墓石の右側に「宮本仲妻幸子之墓」と刻む宮本仲の謹誌の墓誌碑が建つ。 これは宮本仲の前妻である幸子が若くして没した経緯が刻まれている。漢文で刻むため簡単に要訳する。

「妻の名は幸子。東京府士族の志賀忠道の長女。元治元年四月十日生まれ。幼くして聡慧好学で、年十五にして東京女子師範学校を明治十四年十月に卒業。 翌月より其の学校付属小学校訓導に任ぜられる。十七年一月に宮本仲に嫁ぎ、其の四月から欧州に遊学した。 しかし、現地で娠患悪阻(つわりが酷い症状)の病を患い、さらに脳膜炎を発症し、海外の地で五月十一日に没す。享年二十一歳。 教え子や教師仲間ら百人が葬儀に参列した」とある。最後の文面は漢文そのままで記す。「余在海外接訃音憾不得自管表事今将祭其霊立石墓上以表其平生明治二十季四月宮本仲謹誌」


*後妻は良し(同墓)。後妻との子の長男の宮本璋(あきら 1897〜1973.7.20 同墓)は東京医科歯科大学医学部長を務めた教授で生化学者。

*正岡子規の妹である正岡律と再婚したという文章も散見するが裏づけができないため不明。なお正岡子規の墓所は東京都北区田端の大龍寺に眠る。


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