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みやもと あきら

宮本 璋

みやもと あきら

1897(明治30)〜 1973.7.20(昭和48)

昭和期の生化学者

埋葬場所: 22区 1種 37側 3番

 東京神田出身。正岡子規の主治医を務めた宮本仲・良し(共に同墓)の長男。東京帝国大学卒業。
 1936(S11)ベルリン・ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム研究所に留学。デバイ教授(1936ノーベル化学賞受賞)に初の外国人留学生として師事。 頭脳の優秀さと勤勉とで同教授を驚かせ、後にアメリカに移住した同教授からは、亡くなるまで毎年クリスマスカードが届いたという。
 東京帝国大学医学部生化学助教授として活動していたが、主任教授と大衝突し、目前の教授の椅子を平気で棒にふったことでも有名。 '42ジャカルタの医科大学に赴任。その活躍に感謝するため現地司令官のY将軍(名称は調査中)が、わざわざ東京の留守宅に夫人を訪れて感謝の言葉を述べたという。
 電気泳動学や農村医学の先駆者。後に東京医科歯科大学医学部長を務めた。学者としての堂々たるキャリアと忌憚のない言動で、昭和20〜30年代の医学界を光被した医学者の一人であり、全国医学部長会議では「宮本法王」と呼ばれた。 また、門下生の論文指導が厳格でしばしば早暁にまで及んだため、「暁に祈る」という言葉が大学内ではやったが、自分自身では医学博士の学位はおろか医師免許さえ取得しなかったことでも有名。「基礎医学の専門家にはそんなもの邪魔だもの」とのことである。
 戦後、当時の東大や医歯大の学生自治会を牛耳っていた全学連反主流派の寄付金の強情に際して、竹馬の友であった元日銀総裁の渋沢敬三を紹介し、血の気の多い学生の度肝を抜いた逸話がある。 多くの門下生も排出しており、高弟に筑波大学学長を務めた阿南功一、弟子ではないが生涯尊敬し続けた人に、医歯大教授で難治疾患研究所所長、日本フッ素研究会創立者である柳沢文徳らがいる。
 日本山岳会の古参会員の一人。高山植物についても造詣が深く、今上天皇が皇太子時代、講話のためしばしば東宮御所に招かれた。享年76歳。

<『昔紅顔の美少年』村上徹>
<村上徹様より情報提供>


*墓石は和型「宮本仲之墓」。左面が墓誌となっており、宮本璋らの名と没年月日が刻む。

*著作物のペンネームを安騎東野(あき とうや)とし、『農村復興』『医学者の手帳』『医学への道』などを書いている。


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