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みやもり あさたろう

宮森麻太郎

みやもり あさたろう

1869(明治2.1.15)〜 1952.10. 2(昭和27)

明治・大正・昭和期の英文学者、翻訳家

埋葬場所: 4区 1種 41側 23番

 広島県出身。号は桃潭。築地一致英和学校(明治学院の前身)で英語を学び、慶應義塾大学英文科卒業。
 1894(M27)文部省検定試験に合格。宮崎、宇都宮、水戸の中学校で教員生活を経て、母校の慶應義塾大学予科英文学の教授に就任。明治大学、東洋大学に出講したこともあり、終戦後は参議院の渉外部で翻訳の仕事をした。
 傍ら、多くの翻訳書を出版した。特に日本文学の英訳、海外紹介の功績は大きく、Nippon Times 寄稿家として詩歌の英訳を寄稿するほか、著書を通じて、和歌、俳句の英訳を紹介した量は非常なものであった。著書は「An Anthology of Haiku Ancient and Modern」、「Masterpiece of Japanese Partry , Ancient and Modern」、英国ロンドンで出版され注目された「Masterpieces of Chikamatsu , the Japanese Shakespeare」(1926)など、7冊刊行した。自作句歌集『句と歌』も出版している。
 当時は多くの日本通といわれる西洋人が俳句の英訳本を出版していたが、その翻訳の多くに間違いがあるので、正しい翻訳をして海外の人に伝えたいとの強い気持ちから英訳の俳句集である『古今俳句一千吟』を出版し、自らを「英訳近松傑作集著者」と紹介した。
 西洋人が日本の風俗習慣を正確に理解し、日本語の持つ深い意味を解釈するのは非常に難しいが、日本独自の文学である俳句を日本人が英訳することで正しい伝統を世界に広めることができるであろうと考えた。松尾芭蕉の句「古池や蛙とびこむ水の音」を「The ancient pond! A frog plunged The sound of the water!」と訳した。日本文学を海外に紹介し反響を呼ぶが、5・7・5の17文字に込められる背景は様々な見方や心情の捉え方は人それぞれであるため、宮森の翻訳をきっかけに、その後、多くの翻訳者によって俳句の英訳が発表され、ひとつの俳句で100通り以上の英訳が生まれる結果となった。
 日本文学の英訳だけでなく、大正中頃から昭和の初めにかけては英米の演劇紹介にも力を入れた。'21(T10)欧米各国の劇作家24人の作品51篇を取り上げ、その一人一人についての概説と51篇の梗概とをまとめた。1,234頁に及ぶ大著『近代劇大観』は、当時の群小劇団によって次から次へと上演された翻訳劇の案内書として、相当な役割を果たした。宮森の訳が実際に舞台で用いられたのは、'17.7 帝劇女優劇がスウトロの『腕輪』を上演したのが最初である。配役を日本名にしたり日本風にアレンジした宮森改作の劇も数多く上演されている。なお主な著書は『英国喜劇 一幕物三種』(1916)、『英米近代劇 一幕物十種』(1926)、評論『近松とシェークスピア』(1929)など多数ある。小山内薫と国民新聞紙上でイギリス演劇紹介の論争も繰り広げた。
 日本ペンクラブ会員。晩年は万葉集と古今集の英訳に没頭したが、完成を見ずに死去した。享年83歳。

<講談社日本人名大辞典>
<20世紀日本人名事典>
<私立PDD図書館人名事典>
<「宮森麻太郎イギリス演劇紹介」水野義一>


墓所 墓所 みやもり かずお

*墓所入口左に「宮森家」の標石。墓所内には四基建つ。墓所正面に三基並ぶ。真ん中に宝篋印塔「為 宮森家 先祖代々菩提」、左面「昭和三十八年三月吉日 功徳主 宮森和夫」。墓所正面右に宮森麻太郎夫妻の和型墓「勧學院深潤桃潭居士 / 勧相院顕光慈薫大姉」、右面には宮森麻太郎と妻のコト(S26.4.3・行年70才)の歿年月日と行年が刻む。左面「昭和二十八年四月吉日 施主 宮森和夫」。墓所正面左に宮森和夫夫妻の和型墓「實相院興隆法和居士 / 光明院貞心法勢大姉」、右面「従四位勲二等瑞宝章」と宮森和夫の俗名と歿年月日、妻の宮森せい(H10.4.24・91才)が刻む。左面「昭和六十三年二月吉日 施主 宮森せい」。墓所右手側に宮森朝夫の和型墓「悠光院朝覺清道居士」、右面に「宮森朝夫 平成四年七月十六日 行年六十才]。左面「平成四年八月吉日 施主 宮森日出」。

*妻のコトの末弟の和夫を養子として迎えた。宮森和夫は三和銀行の銀行家、後に丸善石油の経営を立て直した社長として活躍。


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