広島県三原市出身。丹羽家の9人兄姉の末っ子として生まれる。長姉のコトの嫁ぎ先である英文学者の宮森麻太郎(同墓)の養子となる。
麻布中学を経て、1925(T14)明治大学商学部卒業。卒業後、大阪の中堅銀行である山口銀行に入行。'33 山口銀行・鴻池銀行・三十四銀行の3銀行は財閥系銀行に対抗すべく合併して三和銀行が誕生。そのまま行員として三和銀行で勤務。戦後、GHQにより財閥銀行と同様に扱われ経営者が追放されそうになるが、ピープルズ・バンクであることを力説し除外される。大衆から預金獲得に全行をあげて努力し、'49 預金順位3位に到達している。
'48 堀留支店長、銀座支店長などを経て、'53 大阪本店業務部長に昇進すると、部の業務を従来の宣伝事業に留めず積極的預金獲得諸事業にまで拡大し、その結果、三菱銀行を抜いて富士銀行に次ぐ預金高達成に繋がった。
'56(S31)三和銀行取締役、'57 常務取締役、'59 専務取締役を経て、'60 取締役副頭取に就任。'64 三和グループに所属していた累積赤字が膨らみ経営危機が叫ばれていた丸善石油を引き受けることになり社長に就任。
丸善石油は三和銀行をメインバンクとしていたが、'62 急激な事業拡大のため技術提携先だった米のユニオン石油に1500万ドル(54億円)の増資株式を引き受けてもらい、さらに米銀行団から1500万ドルの融資を受けたものの、'63 3月期決算では52億円という膨大な赤字を計上しており、経営危機にあった。前任社長や関西財界の有力者から積極的再建の適任者として乞われた。就任の第一声は「人生最後の勝負を当社再建にかける」であった。
関西の下津、松山に加え、'63 京浜工業地帯の千葉で製油所が本格操業を開始していたので、早期再建の鍵は流通・販売体制の強化にあると考え、20万トン級の大型タンカーの用船、全国の給油所拡大・販売強化、自動車メーカーやタイヤ・バッテリーメーカーとの業務提携を進めた。'67 さらにポリエステル系繊維原料の一貫生産体制を整え、化学繊維産業のニーズに応えた。このような結果、'67 3月決算では赤字が解消し再建に成功させ、翌年にはユニオン石油からの株式買い戻しも実現した。'68 原油の確保のためアブダビの原油開発権益を獲得。'69 アラスカに原油開発の現地法人を設立した。丸善石油は高度経済成長を続ける日本経済や自動車産業の発展をエネルギー面で支える有力企業として業界でも確固たる地位を築き上げた。リスクのあるアブダビ進出を評して「民族資本結集の旗頭」、また経営手腕から「行動の経営者」と評された。
'71 藍綬褒章。'76 丸善石油会長に退く。'82 明治大学OB経済人の集い茗水クラブ第三代会長に就任。勲2等。享年85歳。