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みやけ ふくま

三宅福馬

みやけ ふくま

1883.6.15(明治16)〜 1958.4.7(昭和33)

明治・大正・昭和期の逓信官僚

埋葬場所: 13区 1種 15側

 高知県長岡郡高須村(高知市)出身。1900(M33)高知県第一中学校(追手前高校)を卒業。豊かでなかったため毎月8円の手当が出る東京郵便電信学校に入学、'02卒業。郵便局で働きながら東京外国語学校でロシア語を学び、'07 高等文官試験に合格。
 通信事務官補、逓信管理局事務官を経て、'09 東京郵便局鉄道郵便課長、'10 初代 東京鉄道郵便局長に就任。母校の教官も兼ねた。臨時発電水力調査局の事務官や逓信書記官を務め、'13(T2)電気局監理課長、同業務課長、通信局電信課長、逓信官吏練習所教官などを歴任し、'24退官。この間、'16 スイスに留学、'17 アメリカに転じ、電気事業の経営について研究して、'18 帰国。
 '29(S4)冨田幸次郎(9-1-2-17)の推薦で台湾総督府交通局逓信部長に就任。交通局参事、同理事、同逓信部長を務めた。日月潭発電計画を完成させ退官。'32 山下奉文(16-1-8-6)らの斡旋で満州国国務院法制局長に就任。二年間務めた。その後、'35 日本電気協会常務理事、富士飛行機監査役・副社長などを務めた。
 '49 逓信省が郵政省と電気通信省に分かれると電気通信省運営委員会の委員になり、'53 郵政省郵務局経営調査室委員となった。
 俳句をよくし「橙村」と号す。文筆も達者で『日本ゆうびん史随想』(1955)など単行本だけで13冊。没後、妻の順子や遺族らの手で編集した伝記『橙村片影』(1959)、長男の三宅洋左(同墓)の編著『橙邨自伝 : "電信の父" 三宅福馬』(1988)が刊行された。

<高知県人名事典>
<大衆人事録>
<人事興信録>


*墓石は和型「三宅家累代之墓」、裏面「昭和九年春彼岸 三宅福馬 建之」。左面が墓誌となっている。戒名は康明院橙村法福日證大居士。右側に漢文で刻む三宅家の墓誌碑が建つ。


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