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みしま よしつぐ

三島良績

みしま よしつぐ

1921.8.5(大正10)〜 1997.1.12(平成9)

昭和・平成期の金属工学者、原子力工学者、
原子力安全の父、切手収集家、印刷物蒐集家、
野球愛好家

埋葬場所: 3区 1種 14側 1番

 東京出身。祖父は学校衛生の創始者である医学者の三島通良(同墓)。MK磁石を発明した冶金学者・金属工学者である三島徳七、二三子(共に同墓)の長男として生まれる。旧漢字は三嶌。
 1944(S19)東京帝国大学第二工学部冶金学科を卒業し、同大学院に進む。'45 大東亜会館(東京会館)にて百島恒子と結婚。'49 東京大学大学院を修了し、東京大学第一工学部付属綜合試験所専任助教授となり、冶金学を担当。'63 東京大学工学部教授(核燃料工学、基礎工学)に就任した。'84 東京大学停年退官し名誉教授。
 日本の原子力開発創世期からの第一人者として活動し、ジルコニウム合金の研究は、原子炉材料としてその安全性に大きく貢献した。原子力の平和利用と安全性確立に尽力し「原子力安全の父」と称されている。
 三島良績は「戦争はやめようだけでは世界平和の招来にならない」と訴え、この限られた地球表面の制限内で住める人間の数は、使えるエネルギー量、利用可能の資源量からみて本当にどのくらいが限度で、どうしてそのくらいに抑えるか、またその資源、エネルギー量をどう分配したらみんなそれぞれ気がすんで争わずに暮らせるかという問題を考える方がこれからは大事だと力説し、いくら難しくてもその解決の方策をつくることに世界中みんなで努力しなければ世界の恒久平和はもたらされないと言い続けた。よって、エネルギーを考える人が重要であり、各国の政策や現在世界の主導権をもつ国のグループの都合を優先させずに、本当に人類のためを考えて各個人の責任と尊厳に基づいて世界の最適人口の上限を考えたり、資源やエネルギーの分配比率を考えたりするNGOの存在がいまや重要なのであると述べている。
 早くから原子力の平和利用と安全確保のために、自らの研究と共に学会の指導者として重要な役割を務めた世界的な工学博士であり、原子力安全性の世界的権威者として世界の原子力開発の先頭で活躍。この功績は、'91(H3)米国原子力学会(ANS)によって三島賞が設立されるに至る。
 この間、'64 日本金属学会功績賞受賞、'71 日本原子力学会賞技術賞受賞、'81 第1回原子力学会 原子力安全功労賞受賞、'85 チタン30年功労賞受賞、'86 アメリカ材料及試験協会(ASTM)オグデン賞受賞、'88 属学への貢献により、村上記念賞受賞、同年、高融点金属研究と工業標準化への功績により米ASTM功績賞受賞、ジルコニウムへの貢献により世界的な栄誉賞であるクロール国際賞受賞(受賞決定は昭和61年)した。'90(H2)原子力平和利用研究への貢献により米国原子力学会(ANS)よりシーボルグ賞受賞、'91 中華民国技能学会賞牌「技能師儒」を受ける。同年、米国ASTMシンポジウムアオード・メダルを授与され、米国原子力学会(ANS)に「三島賞」が設立された。
 日本原子力学会会長、日本学術会議会員、フランス金属学会名誉会員などを務める。'94 食道がん手術を受け、翌年には復帰し、'95 国際原子力学会協議会(INSC)会長を務めた(〜'96.12)。'96 勲3等旭日中綬章受章。
 主な著書に『金属材料概論』『最新金属材料学』『特殊金属材料』『合金状態図−その見方・使い方』『核燃料工学』『原子のエネルギー−その原理と利用』『100万人の金属学 材料編』など多数あり、父の徳七と共著した『合金学』上・下(1954)、原子力シリーズと題して『100万人の原子力』基礎・応用(大山彰との共著:1971)、『新材料開発と材料設計学』(岩田修一との共著)などもある。
 工学者としての他に、切手収集家、印刷物蒐集家、野球愛好家、猫愛好家の顔も持つ。
 大学院時代、'47 切手収集の趣味が高じて東京大学切手研究会を発案、設立した。'52 自ら撮った写真が郵政省発行切手の構図用写真として採用され、東大75年記念切手として発行された。'56 東大切手研究会顧問となる。切手の本も出しており切手収集の火付け役の一環もなした。'58『切手よもやま話』、'65『切手集めの科学』『切手集め教室 おとなにも子供にも楽しい』、'83『切手でつづる原子力』、'93『三島博士の切手が語る世界のエネルギー』を刊行。'86 郵政事業功労により、郵政大臣表彰「前島賞」を受賞した。
 切手からの派生で、旅の記念に切符や入場券などはもとより、機内食に出るチーズやジャムのラベル、新幹線の車中で食べた駅弁の箸袋と外側の包装紙をしっかり集める印刷物蒐集家でもある。中には学園紛争時代に撒かれた全共闘のアジビラも収集しており、当時の卒業生との同窓会にて持参し想い出にふけったという逸話もある。几帳面な性格でありこれら収集したものをマメにファイリングするだけでなく、常にオリンパス・ペンを持参し旅先でのスナップ写真の他、収集した物の撮影も行い整理した。こうした資料の保管のために、自宅には荷重計算はもとより、耐震設計、浸水対策を施した本格的な書庫を設けたそうである。
 野球愛好家として選手として草野球に興じるだけでなく、監督や裏方などでも活動。東京大学第一工学部付属綜合試験所専任助教授時代、'50 付属綜合試験所野球チーム監督となる。'57 原子力工学科に移ると、そこの野球チーム監督を務める。'75 東京大学野球部長に就任し六大学野球に関わる(〜'82)。'77 原子力工学科野球チーム総監督を兼ねる。同年『われらが草野球 : 一千万同好者とともに』を刊行。'82 後楽園球場で還暦記念の野球大会が研究室一同により開かれる。'90(H2)第17回日米大学野球日本チーム団長を務めた功績により、日本スポーツ賞を受賞した。'91 神宮球場で古稀記念の草野球大会が開かれる。'93 古稀を過ぎても草野球では現役選手として試合に出場し、草野球180勝を達成した。
 その他、'91 原子力関係の猫好き17人で「猫の会」を発足し、猫愛好家の顔もあり幅広い趣味人であった。享年75歳。葬儀が上野の寛永寺輪王殿において執り行われた。

<20世紀日本人名事典>
<三島博士顕彰会 三島徳良績年表 -三島良績博士の歩み->
<「三島良績先生の想い出」甲斐晶(エッセイスト)など>


墓所

*墓石前面「三嶌家累代墓」、裏面「大正十五年三月九日 三島徳七 建之」と刻む。墓誌などはない。墓石は三島通良が亡くなったちょうど一年後の一周忌に婿養子の三島徳七により建之された。

*妻は恒子(旧姓は百島)。子の三島良直(1949.6.19-)は日本医療研究開発機構理事長、東京工業大学学長・名誉教授、新エネルギー・産業技術総合開発機構技術戦略研究センター長、日本金属学会会長などを歴任した精密工学者。

*三島良績が金属学分野で現役バリバリに活動していた時、身内に不幸があり、墓での納骨のときの逸話がある。久し振りに納骨室の扉を開けたところ、骨壺を納める棚、当時は木枠(現在はコンクリートが多い)であり内部がすっかり腐り果てていた。これでは金属屋の名折れだと血が騒ぎ、当時はまだ珍しく高価であり生産量も少なかったチタンを取り寄せ、納骨室の内部(木枠等)をチタン製にしたそうだ。

*歴史的偉業をなした三島三世代の名称
 三島通良 ⇔ 日本の学校衛生の生みの親
 三島徳七 ⇔ 世界のマグネットの三島
 三島良績 ⇔ 原子力安全の父

※2022年1月9日(R4)、筆者が多磨霊園に散策をしに行った際、10数年ぶりに「三嶌家累代墓」に遭遇したので、久しぶりに墓参り&写真撮影を行う。せっかくなので三島通良と三島徳七の文章をリニューアル編集を行う。その時に三島良績の存在を知り新規制作に取り掛かる。ここに掲載している三島良績の紹介文章が、1月12日に完成。偶然この日は三島良績の命日であることに気づく。1997年に亡くなったため、2022年の現在では没25年である。更にもしご存命であれば100歳(生誕100年)であることにも気づき驚いた。このような偶然の発見は、制作者としてのやりがいのひとつでもある。


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