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みしま みちよし

三島通良

みしま みちよし

1866(慶応2.6.6)〜 1925.3.9(大正14)

明治・大正期の学校衛生研究者

埋葬場所: 3区 1種 14側 1番

 武蔵国入間郡霞関村笠幡(埼玉県川越市)出身。父の三島通郷は漢字や習字を私塾で教え、明治に入ると神奈川県検事を務めた。長男として生まれる。号は静堂。旧漢字は三嶌。
 1889(M22)東京帝国大学医科大学卒業。在学中に父を亡くすも、語学教師や翻訳、通訳などをして学資を捻出。また在学中に育児書『はゝのつとめ』を執筆した。多くの人に読まれ、二版の際は榎本武揚文部大臣により題字が書かれ、昭憲皇后も読んだとされる。卒業後、同大学院小児科学を専攻し学校衛生に関心を持つ。
 1891 明治政府は整備されていなかった学校衛生の改善を検討していたが、体格や体位、生活習慣が異なる欧米の学校衛生をそのまま移入することは不可能であるという観点より、日本の児童の調査をすることになった。そこで文部省より学校衛生調査を嘱託され、文部省学校衛生主事として全国の学校を巡回(まず九州と東北地方から開始)。
 調査は授業と学科時間、就学年齢のほか、学校立地、校舎の構造(採光、換気)、飲料水、便所、机、椅子(腰掛け)の調査を行い、加えて教科書の活字の大きさ等に及び、近視や脊椎側彎(せきついそくわん)症の関係が調査された。調査によってわかった学校衛生の劣悪さを指摘し、改善の指針を示し論文にまとめた。
 論文は各学校の敷地は党派間の争いによりむやみに選ばれたため、学校衛生上不適当な立地である学校が60%もあり、校舎の設計や建築は専門の職人ではなく町村理事者や学務委員の裁量により建てられていることから、多く採光、換気、飲料水、便所などが不適当な校舎が全体の4分の3に及んでいると指摘。学校設備の中で最も問題視したのが椅子(腰掛け)であり、近視や脊椎側彎症が増加する予測を訴え、さらに校内での結核やトラホームなど伝染病や感染症の増加予測も指摘。加えて教員の衛生上の知識が乏しい事、生徒に十分な休憩時間がない事、小学校生徒の健康状態を観察し全児童の約半数が健康病弱者であることを指摘。これらの改善点をあげ、日本独自の学校衛生を提唱、推進した。
 1893 調査や研究結果をまとめた『学校衛生学』を刊行。政府からも、1895『学校衛生取調復命書摘要』として発表された。1896 机、椅子(腰掛け)の寸法を定めるために体格検査を実施。また東京高師教授を兼ね、学校衛生学を講義し、未来の教師たちに学校衛生の重要性を論じた。
 児童の身体の健康を保護し、且つ強壮にするためには教育の基礎として学校衛生の必要性を論じ、教育条件の整備と教育方法の改革の重要性を訴えた。具体的な保護の施策として児童を取り巻く環境の改善及び管理、学校医の設置による監督に重きを置いた。これらの意見は、1896 学校衛生顧問会議の場で建議として挙げられ、これに基づいて学校清潔方法、学生生徒身体検査規程、公立学校医設置に関する規定などで整備され、日本の学校衛生制度として公布された。
 1898 学校衛生取調嘱託、1900.3 文部省官房に学校衛生課が設けられ課長に就任。同.12 児童に対する健康の注意点を扱った『衛生唱歌』を作詞。1902 「日本健体小児ノ発育論」で医学博士。これら日本で初めて小児の発育状況をデータとしてまとめたものとなる。児童の就学開始年齢を満7才とするべきかの議論では、自身の調査結果やドイツ学者の学説などを基に満6才就学の妥当性を挙げた(この時に決定した小学校入学満6才制度は現在も継続されている)。
 '03 ドイツ、イギリス、フランスに留学。主にベルリン大学で学校衛生の見識を深めた。留学中に万国学校衛生会議の主唱者に選任され、ブリュッセルで開催された第13回万国衛生及びデモグラフィ会議に日本政府委員として出席。'04 帰国。
 '05 東京高師教授を退官し、東京麹町に三島医院を開業。'06『家庭及教育』は子供の養育を含む家庭教育に関する大著として紹介された。'11 脳神経衰弱症を患い医院を廃業し、以後は学校衛生の研究に専念した。医術開業試験委員、東京帝国大学医科講師、東京商大講師、広島高師講師等を務めた。
 このほかに、1892(M25)帝国痘菌院を設立して痘菌の供給と種痘術(三島式種痘法:人体の皮膚に痘苗を接種して天然痘に対する免疫を与える方法)の研究に取り組み、これの普及にも尽力した。「日本の学校衛生の生みの親」と称され、母子衛生法の改良、三島式種痘法の発明や普及など多大な功績を残した。著書は『救世痘病』『室内体育』『日本小児発育一覧表』『中等生理衛生教科書』など多数ある。正6位 従5位。享年58歳。

<コンサイス日本人名事典>
<20世紀日本仁美恵事典>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<平凡社 世界大百科事典>
<人事興信録など>


墓所

*墓石前面「三嶌家累代墓」、裏面「大正十五年三月九日 三島徳七 建之」と刻む。墓誌などはない。墓石は三島通良が亡くなったちょうど一年後の一周忌に婿養子の三島徳七により建之された。

*三島通良の妻は ちよ(千代子) 。ちよ(明治9年生)は、広島県士族の平山靖彦の二女。男子に恵まれなかったため、1920(T9)東京帝国大学工学部冶金学料卒業した喜住徳七の将来に渇望し養子縁組し、娘の二三子(同墓)と結婚。三島徳七が三島家の家督を継いだ。徳七はMK磁石を発明した冶金学者・金属工学者である。孫(徳七と二三子の長男)の三島良績(同墓)は原子力安全の父と称された金属工学者、原子力工学者。曾孫の三島良直(1949.6.19-)は日本医療研究開発機構理事長、東京工業大学学長・名誉教授、新エネルギー・産業技術総合開発機構技術戦略研究センター長、日本金属学会会長などを歴任した精密工学者。

*歴史的偉業をなした三島三世代の名称
 三島通良 ⇔ 日本の学校衛生の生みの親
 三島徳七 ⇔ 世界のマグネットの三島
 三島良績 ⇔ 原子力安全の父


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