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まつだいら たけお

松平健雄

まつだいら たけお

1873.10.6(明治6)〜 1927.7.19(昭和2)

明治・大正期の宮司

埋葬場所: 4区 1種 21側

 会津藩最後となる9代藩主の松平容保・佐久の次男。子に福島県知事を務めた松平勇雄(同墓)がいる。1918(T7)健雄は分家。会津高田町の伊佐須美神社の宮司。

《詳しい詳細は調査中。ご存知の方は一報ください。》


【松平健雄とイチゴ】
 1896(M29)静岡市の久能山東照宮宮司を務めていた時に、アメリカの友人よりイチゴ苗エキセルシャ(一説ではビクトリア)種を入手した。 イチゴは幕末にオランダ人が日本に持ち込んだことが最初であるが、主に華族の観賞用として栽培されていた(健雄の兄の松平容大が子爵を授爵しており、健雄が分家したのが1918(T7)であるため、この時は健雄も華族の一員である)。 1900(M33)健雄が転任する際に、車夫の川島常吉がそのイチゴ苗を譲り受けた。 川島は植え付け子株を育て、苗を畑に植えたり、鉢に植えたりして工夫・観察をしている際、桃畑の土留めの石垣の間に植えた苗は、冬にもかかわらず石の輻射熱で発育もよく、甘くて赤い大きな実をつけ、早く熟して収穫できることに気がついた。 これに着目し、翌年には石垣に植える苗を増量し、世界に例を見ない画期的栽培法を確立した。これが「石垣いちご」としての始まりであり、イチゴを日本で最初に本格的に農産物として栽培に取り組んだ歴史である。


【父の松平容保と松平健雄の兄弟】
 父の容保が14歳の時に松平容敬の五女の敏姫と結婚するが、敏姫が19歳で死去。その後、新たな正室として浦乃局を迎えている。側室は田代孫兵衛の娘の佐久と、川村源兵衛の娘の名賀の2人いた。 佐久は容保が京都守護職時代の身の周りの世話をしていた人物で、その佐久との間に、長男の容大、次男の健雄、五男の英夫、七男の保男を生む。 一方、名賀との間に、長女の美称、次女、三男、四男、六男の恒雄を生む。よって、後に外交官・初代参院議長などを務めた松平恒雄は異母兄弟となる。
 父の松平容保(まつだいら かたもり 1836.2.15〜1893.12.5)は佐幕派列藩同盟の中心として会津若松城で討幕軍と戦い(戊辰戦争)敗れた。 その戦いで自決した白虎隊士の一員である鈴木五郎の弟である六郎家の墓所が多磨霊園(18-2-86)にある。容保は後、幽閉され紆余曲折あったが、晩年は日光東照宮宮司を務めた。 1884.7.8(M17)明治政府より家名存続を許されて華族に列せられた。長男の松平容大(かたはる)が子爵の授爵している。


*松平恒雄(1877〜1949)の墓所は青山霊園 警視庁1種ロ8区1/14側14番

*松平容保の墓所は新宿の正受院でしたが、その後、会津の院内山に改葬され現在に至る。

<徳川葵様より情報提供>


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