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まつだいら そうえん

松平宗圓

まつだいら そうえん

1870(明治3.6.1)〜 1942.1.23(昭和17)

明治・大正・昭和期の茶人、子爵

埋葬場所: 10区 2種 16側 8番の2

 東京出身。父は出雲母里藩10代目最後の藩主の松平直哉、母は江戸大名の堀田正睦の娘の道子(共に同墓)の長男として生まれる。本名は松平直敬(なおよし)。宗圓は号。当家は雲州松江藩主の松平出羽守直政の男、左近大夫隆政の後なり。隆政は同国母里一万石が分興せられ別に一家をなす。それより八世を経て、松平直哉に至り、1884(M17)子爵を授けられ、直哉は貴族院議員の子爵議員として活動した。
 学習院で学ぶ。1894.12 一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入隊。陸軍歩兵少尉に任官した。1899.12.30(明治32)父の直哉が没したことで、1900.1.10家督を相続し11代藩主・子爵を受け継ぐ。
 '02 私立東京女子体操学校(東京女子体育大学)設立に際して初代校長に就任。'03.3 貴族院議員(子爵議員)の補欠選挙で当選。校長を辞して子爵議員として、'11.7 まで務める。
 '15.8.10(T4)隠居し宗圓と号して茶人に転じた。同.8.30 分家して長男の松平直一(同墓)に家督・子爵を譲る。
 宗圓は茶人として不昧流の5代目であり、後に「石州流不昧派」を開祖した人物である。不昧流(ふまいりゅう)は、出雲松江藩七代藩主の松平不昧に始まり、その茶系を継いだ初代藤井長古(宗与)は、松江藩茶堂として不昧公御流儀を藩士に広めた。 初代の娘婿の2代目藤井長古(宗古)の弟子に、安喰善知と為石九方がおり、安喰善知の門人が松平宗圓(直敬)である。主に、皇室や学習院で茶の湯の指導にあたるなどして、関東地方に広めた。
 主な著書に『お茶のたて方』(T15)、『作法と禮式』(S3)、『花の生け方』(S6)、『正しい日常の作法』(S7)、『作法と礼式』(S8)などがある。享年71歳。

<人事興信録>
<日本の茶家>
<日本の名門1000家など>


墓所 宝篋印塔

*墓石正面「松平家」、裏面「1998年7月吉日 松平直一 建之」。右側に松平代々の宝篋印塔が建つ。左側には墓誌があり、松平直哉から刻む。宗圓は本名の松平直敬として刻む。

*出羽国長瀞藩5代藩主で子爵の米津政敏の長女である鉄子と結婚したが、後に離縁。鉄子はのち河村隆美と再婚している。鉄子との間に4男2女を儲けている。長女の初子(1898-1927)は茂山鉄鉱開発株式会社専務取締役の津田利機に嫁ぎ、子の津田眞澂(1926〜2005)は一橋大学名誉教授、経済学博士、労働学の権威である。なお、津田眞澂の墓所は東京都台東区の寛永寺第二霊園(竹内家)にある。次女の佳子(1901-1927 同墓)は磯野東治に嫁ぐも26歳の若さで没す。長男の松平直一(同墓)は家督と子爵を継ぐ。次男の直照(1905-1947)は島田家へ養子。三男の直治(1908-1968)は桜井家へ養子。四男の明(1910-1981)は石丸家へ養子。


【石州流(せきしゅうりゅう)】
 大和小泉藩二代藩主の片桐石州が開祖。千道安からその弟子桑山宗仙にと伝わった利休流茶道を継承して、さらに独自の風格と作意を加えて創始。 江戸時代を通して、最も広汎な広がりを持つ大名流の茶の流派。


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