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ますだ あきくに

増田顕邦

ますだ あきくに

1904.3.17(明治37)〜 1965.9.26(昭和40)

昭和期の新聞人(日刊工業新聞)

埋葬場所: 3区 1種 15側

 福岡県出身。野北尋常小学校長を務めた増田寅吉の六男。幼くして父を亡くし、母のヒデ、兄たちに育てられる。大牟田市三井三池工業所社員養成所専門部を卒業。
 1931(S6)日刊工業新聞社にはいり、企画局長などをつとめる。'45「工業新聞」を復刊して社長。 のち新日本機械工業などの社長も兼務した。東京商工会議所議員など多くの要職を帯び工業及び公共事業に貢献したる功により藍綬紺綬の褒賞授章。 '58増田が発起人となり、日刊工業新聞社が優秀新製品の開発奨励とわが国産業界の技術水準の向上に資することを目的として「十大新製品賞」を創設した。 毎年、その年に製品化・販売された新製品の中から10点厳選し表彰をしているものであり、その中で特に優秀と認められたものに送られるのが、「増田賞」である。
 '62父が校長を務め、自身の母校でもある野北小学校(S5 桜井小学校と合併)の校舎の老朽化が進み、改築の急務に迫られるも、村の財政上困難を極めている事態を知り、郷土子弟教育の重要性を痛感し、小学校建設費として当時のお金で1千万円という巨額な資を寄贈し、2ヶ年の短時日に全改築2575平方米の竣功をした。 更に内容充実費として百万円寄贈している。村民挙げて氏の徳を頌せざるはなく、完成した校舎の玄関入口付近に、「増田顕邦氏頌徳碑」が建てられた。 享年61歳。娘のトヨは出版人の鈴木弘に嫁いだ。弘の父は出版人・政治家の鈴木文史朗。

<講談社日本人名大辞典など>


*墓石は和型「増田家之墓」。右側に墓誌がある。増田顕邦の戒名は乾徳院殿顕邦宗栄大居士。甥でマスダック名誉会長として製菓機械開発者の増田文彦の戒名は清徳院技豊文英居士。

*娘の弓子は堀田正治に嫁ぐ。正治の実父の堀田正恒は子爵の鍋島直柔を父とし、養父は伯爵の堀田正倫。正恒の後妻の伯爵の伊達邦宗の娘の秀子が母。正治の兄の堀田正昭の妻は横河時介(9-1-4-4)の娘の澄江。


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