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まるやま まさたけ

丸山正武

まるやま まさたけ

1913.10.17(大正2)〜 1987.5.11(昭和62)

昭和期の陸軍軍医、実業家(オルガノ)、美術商

埋葬場所: 22区 1種 73側

 長野県諏訪市出身。東京帝国大学薬学科卒業。在学中に薬学科長であった慶松勝左衛門(6-1-12)や教授の丹波敬三(2-1-6-15)に教わる。大学を卒業すると、直ちに徴兵にあい、終戦まで陸軍軍医として軍務に服した。
 当時、戦地である硫黄島において水を飲み、お腹をこわす兵士が多くいたため、安全な水が必要ということで開発の指令を受け、海水を真水にするため、軍医学校でドイツの文献を頼りにイオン交換樹脂を使った飲料水の精製装置の研究を行った。 携帯用の濾水器を作り、東條英機陸軍大臣の前で、兵士に海水を採らせ実験のデモンストレーションを行い、東條は感心して丸山に陸軍大臣賞を与えた。これには実は裏があり、丸山は失敗を恐れて最初から真水を入れていたというエピソードがある。
 戦後も水処理装置の将来性を確信し、引き続き開発に従事。1946(S21)故郷の長野県諏訪市にて資本金5万円で株式会社日本オルガノ商会を創業。初代社長となる。イオン交換樹脂は、当時「オルガニック・ゼオライト(有機ゼオライト)」、略して「オルガノライト」と呼ばれており、これが社名の由来となった。
 エネルギーを使わずに蒸留水をつくるイオン交換装置の開発に取り組み、無熱蒸留水製造装置を完成させた。今までは海水を加熱し、さらにその蒸気を冷やしてつくる方法が主流であったところ、この装置は加熱することなく、イオン交換樹脂を用いることで、NaClなどイオン分子を取り除き、海水から真水をつくることができる画期的な装置の開発であった。
 '48諏訪で創業をしたが、営業拠点を東京日本橋に開設、その後、研究所を都内に開設するため、学生時代に馴染みのあった本郷地区に土地を求め、当時、空襲で焼け空き地になっていた菊富士ホテルの跡地を、旭電化工業より購入し、'51東京研究所を開設した。 同年、日本最初の大型純水製造装置が完成。'52ローム・アンド・ハース社(米国)と提携し、アンバーライトの日本総代理店となる。'55本社を本郷の地に移す(現在の本社は江東区新砂)。'61東京証券取引所第2部に上場('85第1部に指定替え)。'66社名をオルガノ株式会社に変更。
 丸山は晩年、会社を譲り、銀座に「彩壷堂」という美術の店をひらき、多くの画家の個展サロンを開催した。また、'63『鑑賞美術』を柳亮と共著で刊行した。

<物故者事典>
<お江戸散策(本郷・湯島界隈)>
<森光俊様より情報提供>
<オルガノ(株)OB会・水流会会長 勝井次雄様より情報提供>


墓所

*墓石は和型「丸山家之墓」。裏面に「昭和三十七年三月彼岸 丸山正武建之」と刻む。左側に墓誌がある。戒名は鴻徳院秀雅正道大居士。 同墓には父の丸山榮臨(権大僧正榮臨和上)、母の丸山不美、祖父の丸山榮精(法印榮精本不生)、祖母の丸山節子も眠る。


【日本でのイオン交換樹脂の研究】
 1938年頃から三菱化成工業で、また、1941年頃から京都大学などで始まる。戦時中は陸海軍でも盛んにイオン交換樹脂の研究が行われた。'44山田化学研究所が、京都大学と共に我が国で初めてのイオン交換樹脂「オルガチット」を工業的に製造。三菱化成工業は戦争末期頃にイオン交換樹脂「ダイヤイオン」を試作し軍に提供した。'45丸山がダイヤイオンによる水処理装置の開発、研究を開始し、翌年、我が国初のダイヤイオンによる脱塩製造装置を完成させた。同年株式会社日本オルガノ商会を設立。'46三菱化成工業はフェノール系イオン交換樹脂ダイヤイオンの工業生産を開始。'51丸山率いる日本オルガノ商会は世界最大級の600t/Dのモノベット型純水装置を完成させ、'52年アメリカのRohm&Haas社のイオン交換樹脂(Amberlite)の日本総代理店となる。また、同年イオン交換樹脂による『ぶどう糖精製装置』第一号を完成させる。
 その後、イオン交換樹脂およびその装置は我が国産業・経済の高度成長とともに一大発展を遂げる。現在の日本の水環境ビジネスの専業企業のトップ2社は、オルガノと栗田工業。技術のオルガノ、営業の栗田と呼ばれ、それぞれに特色を持った企業である。丸山が創立したオルガノの出発点は、日本帝国陸軍の給水部隊の飲料水を安全に確保する役割を担った経歴がスタートであり、一方、栗田工業の創業者は日本帝国海軍の艦船のボイラー管理・軟水化技術を認められて事業展開がスタートで、好対照な企業である。


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