摂津走井村(大阪府豊中市)出身。先祖は平安時代に医学書『医心方』を著した丹波康頼。蘭方医の丹波元礼の三男。
孫に俳優の丹波哲郎(多磨霊園:秘匿)、音楽学者・作曲家の丹波明(1932-)。曾孫に俳優の丹波義隆。
東京大学製薬学科の第一期生として卒業。同大の助教授となる。ドイツのエルランゲン大学に自費留学、ヒルゲンについて衛生学・裁判化学を学ぶ。
1887(M20)帰国し、東京帝国大学医科大学薬学科教授となる。梅毒治療薬であるサルバルサンを研究し、タンバルサンと命名して国内で販売した。また、薬事法の概要の制定に携わる。
1912〜14(M45-T3)日本薬剤師会会長、後任は丹羽藤吉郎(6-1-9-3)。'17(T6)東京薬学専門学校(東京薬科大学)校長に就任。
同年、勲1等瑞宝章。日本薬局方調査委員、薬剤師試験委員なども歴任し、近代薬学の基礎を築いた。享年73歳。
*墓石は和型「丹波家之墓」。左面に俗名、没年月日、享年、「正三位 勲一等 工学博士」と刻む。妻の貞の名も連名で刻む。墓所内には南百人町会や五日会などと刻む燈籠が計5基建つ。墓誌はない。
*子の丹波二郎・別名は丹波緑川(同墓)は陸軍薬務官から日本画家となった人物。その子供、孫に俳優の丹波哲郎や音楽者の丹波明がいる。
丹波哲郎 たんば てつろう
1922.7.17(大正11)〜 2006.9.24(平成18)
昭和・平成期の俳優、霊界研究家
東京府豊多摩郡大久保町(東京都新宿区百人町)出身。丹波家は後漢の第12代皇帝・霊帝から始まり、平安時代に医学書「医心方」を著した丹波康頼の子孫という。 祖父は薬学者の丹波敬三(2-1-6-15)。父は陸軍薬務官から日本画家となった丹波二郎(丹波緑川)・せん(共に2-1-6-15)の三男として生まれる(正妻の子ではないという話もある)。本名は丹波正三郎。実弟の丹波明は音楽学者。
中央大学法科に入学。当時の総長が林頼三郎で親戚に当たる。在学中に学徒兵の第1期生として陸軍航空隊に入隊。立川飛行場にて「キ64試作戦闘機」に、20ミリ機関砲4門を翼内に2門づつ、胴体に2門つける整備士官として従事。 当時はひどい吃音であったため最前線に送り込まれなかったと回想している(終戦後に突然治ったらしい)。なお、上官は巨人軍の川上哲治。
戦後、外務省からの要請でGHQの通訳を2年間務めた。その後は、兄の薬品会社、東海自動車という進駐軍の修理会社、妻の貞子の親戚筋のコネで油糖砂糖配給公団に就職と転々としながら、夜はアマチュア劇団を主催。創芸小劇場、文化座を経て、1951(S26)新東宝に入社。
'52ギャング映画「殺人容疑者」で主役級でデビュー。長身と彫りの深い顔を生かして、'56「妖雲里見八犬伝」などで悪役として活躍。退社までの8年間は敵役や悪役がほとんどで主演は一度もなかった。東映に移籍後、'59よりフリーとなり、一時、柳家金語楼の付き人をした。
'61今村昌平監督の「豚と軍艦」のやくざ役でコミカルな演技に開眼した。'64篠田正浩監督「暗殺」で幕末の風雲児・清河三郎の複雑な人物像を演じた。 '67日本をロケ地として撮影された英国映画「007は二度死ぬ」では、日本の情報機関のボスとして演じ、ジェームズ・ボンド扮するショーン・コネリーと共演。 監督はルイス・ギルバート。'67年度映画の世界興行成績で第2位の成績となる。既に海外映画の経験があり、日常英会話による意思疎通が可能であったことがオファーされた理由とされる。'74野村芳太郎監督「砂の器」では主人公を追い詰める刑事を演じた。
テレビドラマでも「トップ屋」('60)、「三匹の侍」('63)でスターダムにのし上がる。「キイハンター」('68)などで人気をあつめ、視聴率30%を超え、TBSの土曜21時の時間帯で、「アイフル大作戦」「バーディ大作戦」「Gメン'75」と連続出演した。
'73映画「人間革命」で毎日映画コンクール男優演技賞。'80「二百三高地」でブルーリボン賞助演男優賞と日本アカデミー賞最優秀助演男優賞。2000(H12)「十五才 学校IV」で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞。
心霊学と霊界に造詣を持ち、年間20回以上の講演を行った。霊界の著書を70冊以上出版し、1994『死はこんなに気楽なものか』で第14回日本文芸大賞特別賞受賞。 映画「丹波哲郎の大霊界」シリーズの総監督をつとめ、空前の大ヒットを飛ばし社会現象になる。俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけた。
晩年の出演作品として、2002スタジオジブリの「猫の恩返し」猫王の声優、同年「たそがれ清兵衛」、遺作は2003「T.R.Y」の山縣有朋の役。なお、2006「日本沈没」で写真のみの友情出演が最後。
肺炎のため東京三鷹市の病院にて逝去。享年84歳。告別式は9.30正午に青山葬儀所で営まれた。喪主は長男の義隆がつとめた。 没後、第44回ゴールデン・アロー賞の芸能功労賞が贈られた。
<日本芸能人名事典> <テレビ・タレント人名事典> <講談社日本人名大辞典> <丹波敬三の曽孫の丹波啓子様より情報提供>
*丹波哲郎が亡き妻を偲んだ『貞子抄』という小冊子から抜粋。戦後間もない兄の薬品会社で働いていた時に、服を安く仕立ててくれたテイラーと銀座のダンスホールに行った際に、テイラーが自分の弟子を連れてきた。 この人物が妻の貞子である。丹波哲郎には親が決めた許嫁がいたが、それを断り、1950貞子と結婚。丹波貞子(1927-1997.4.13)は北一輝や北昤吉(4-1-35)のいとこの娘にあたる。 貞子の実兄は、共産党系の弁護士の大蔵敏彦であり、島田事件で死刑宣告を受けた冤罪を晴らして無罪判決をかちとった辣腕弁護士である。丹波哲郎と貞子の長男は俳優の丹波義隆。 義隆が3歳になった頃、貞子はポリオに冒される。小児麻痺で足に麻痺が残り立てなくなり、懸命なリハビリを続けていたが、足を骨折して以降、車椅子の生活になった。 自宅で麻雀をするのが趣味であった。妻の葬式は、無宗教で自宅で執行した。読経もなく、戒名もなく、好きだった「夕焼け小焼け」と「人生いろいろ」の歌で送った。遺骨は散骨したとされる。
*「何故霊界は存在するのか?」という質問に対して、丹波哲郎は、「霊界はエネルギーだから。存在しないと思ったって、我々がエネルギーだから、我々の体が無(亡)くなったら仲間の中に帰るわけだ。仲間というのは霊界のエネルギーだ。エネルギーには色々な種類が有って、類魂と言う一つのグループを作ります。」と述べている。
※丹波敬三の曽孫の丹波啓子様より多磨霊園の別の墓所に眠る丹波哲郎の墓所番地をご教示いただき掲載をしていましたが、2020年9月6日、丹波敬三の曽孫・丹波哲郎の息子様より、「静かに眠らせてください」と丹波哲郎ページの削除要求がありましたので、意を尊重し、削除、番地を秘匿とします。なお「歴史が眠る多磨霊園」は故人を通して歴史を学ぶことをコンセプトとしていますので、丹波哲郎氏の略歴等はここのページにて残すことにします。
|