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にわ とうきちろう

丹羽藤吉郎

にわ とうきちろう

1856.2.2(安政3)〜 1930(昭和5)

明治・大正・昭和期の薬学者、医薬分業尽力者

埋葬場所: 6区 1種 9側 3番

 佐賀藩海軍に勤める丹羽与左衛門の次男。佐賀藩校に学び文武の修業、伝統の葉隠精神を鍛えられ、1969(M4)藩主の「貢進生」に選ばれた。東京大学の前身である 大学南校に入学。 その時、一緒に上京をしたのが、フグ毒の研究で業績を残した田原良純(2-1-6-2)で あった。ドイツ語科に入学したが製薬学科へ転校。卒業後は同大で助手をし学士号「製薬士」授与。 助教授時代の86帝国学令による製薬科廃止決定を遺憾として決死の覚悟で文部大臣をに会見し、近代社会における薬学の重要性を力説、大臣の偏見を正して薬学在立を全うされた。のち教授。 薬品製造学の権威者であったが学内に止まらず、全国病院薬局長会議創設や、日本薬事協会長、日本薬学会頭を歴任されるなど広範な活動。全国薬剤師のリーダーとしても精力的に活動し、日本薬剤師会長の要職を三代に渡り務めた。 《第6代会長(大正3年5月〜大正15年10月)・第7代会長(大正15年12月〜昭和2年2月)・第9代会長(昭和 4年 2月〜昭和5年3月)》なお、5代目会長(明治45年〜大正3年)を務めたのは丹波敬三(2-1-6-15)である。 医薬分業の推進にも大変な尽力をされ、明治24年以来、医薬分業の総師と して、昭和5年逝去されるまで、医薬分業確立のため東奔西走された。

<日本薬剤師会史1994,薬局1967.7,佐賀県薬剤師会報1988.11>


 


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