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まえだ たけしろう

前田武四郎

まえだ たけしろう

1867(明治1)〜 1931.1.21(昭和6)

明治・大正・昭和期の電気技師、実業家(NEC)

埋葬場所: 1区 1種 1側

 新潟県出身。逓信省電気試験所に入り技師となる。三吉正一(9-1-10-10)の三吉電機工場に勤める。1887.11 日本初の電力会社の日本電燈が誕生し創業準備の技師として入り、1889創業と同時に技師長に就任した。同年11月に開催された電気業界の大御所たちが集う電気学会の通常会席上で「交流電流式」と題して演説を行う。東京の日本電燈は直流の送電で開始したにも関わらず、技師長が交流を支持したため非難を浴びた。
 この時期の電気技術の世界では、発電方式を直流にするか交流にするかの論争のまっただ中であった。全盛であった直流では電圧を自由に変えることができず、自由に変えられないため100ボルトや200ボルトの電圧で電気を送っていた。それに対し、交流は途中で電気がなくならないように高い電圧で送ることができ、何千ボルト(現代では50万ボルト)という高い電圧を使うことで、途中で電気を失わずに遠くまで電気を送れる。コストはかかるが安全に直流で送るのか、開発中の技術で危険性はあるが高い電圧を使用して遠くまで運ぶのかが世界規模で意見が分かれている途上であった。その中で前田は交流論支持を表明し、電気関係の大御所たちから非難を浴びるも、屈せずに信念を貫き、後に日本電燈は交流の発電所をつくるに至る。
 前田が演説をした前年に、エジソンの下で学んだ最初の日本人である岩垂邦彦が帰国し、大阪電燈の創業準備に加わり技師長に着任した。岩垂は直流支持者である恩師のエジソンとは異なり交流支持者であり、1889稼働を開始した大阪電燈は日本初の交流発電でスタートさせた。それもエジソンの会社ではなく、敵対していたトムソン・ハウストン社と契約。そのためエジソンから破門され、電気業界からも非難を浴びた。岩垂は前田の演説に感銘を得、二人は同志となる。
 その後、エジソンの会社と敵対していたトムソン・ハウストン社が合弁し、ゼネラル・エレクトリック社(GE)を設立。交流発電機などの強電製品を生産する世界最大の企業となる。GEは岩垂の大阪電燈を総代理店とした。当時の日本は特許の考えがなかったことから、岩垂はGEとの信頼関係を築くために退社して、GE製品の輸入代理店「電気商会」を設立し間を取り持つ立ち位置になった。
 1890東京・横浜間に電話が開通し、電話拡張事業が高まり、逓信省が発足。電話設備不足から海外より輸入が必要となっていた。前田は日本電燈を辞して、輸入商社「日電商会」を創業し、逓信省の入札資格を有する会社を興した。
 1897(M30)ウエスタン・エレクトリック社(WE社)は国内で唯一の国産電話機器メーカーであった沖商会(沖電気)と日本で共同出資による新会社設立を目指し交渉をしていた。沖商会の要請で岩垂が仲介に入るも不調に終わる。岩垂は責任を感じ、自らがWE社と共同で電話機製造会社を設立する提案をし、日本初の合弁会社設立に向けて動き出す。前田は岩垂から声をかけられ、WE社のウォルター・T・カールトンの3人で新会社設立準備を始めることになった。
 まず取り掛かったことが前田の提案で、経営危機に瀕していた日本で初めて直流発電機製造を行い前田も技師として勤務していた三吉電機工場を買収。交渉の結果、WE社に超高額で買い取らせ、三吉正一を新会社の終身顧問とした。これは日本電気事業の発展に貢献した三吉電機への配慮だと後年に前田は語っている。外国資本の新会社設立に向けて、まず三吉電機工場をベースに、1898.9.1(M31)日本電気合資会社を資本金5万円で発足。代表社員に岩垂が就任して4万円を出資し、1万円を前田が出資した。
 欧米列強諸国との不平等条約である日米通商航海条約の改正日にあわせて、1899.7.17(M32)日本初の外資系企業「日本電気株式会社」(NEC)を創立。株式所有率は岩垂・前田をはじめとした日本側が46%、WE社・アメリカ側が54%であった。社長制は導入せず、専務取締役に岩垂、監査役に前田、藤井諸照、取締役にWE社のカールトン、クレメントが就任。
 「日本電気株式会社」という社名は「日本を代表する電気会社になる」という前田の発案で決まった。また開業にあたり前田が提唱した「Better Products, Better Service」というスローガン、「世界の一級品を提供し、責任をもってアフターサービスを行う」をNECの基本方針として掲げた。これは顧客への約束を果たすために、不良品は必ず廃棄し優良品だけを出荷。NECが輸入する製品は世界の一級品であること、生産する機器も世界一流であり、そのアフターサービスは責任を持って果たすことを世間に約束するものである。電話通信機などの輸入販売からスタートし、'23(T12)我が国のテレビジョンの研究、'25東京−岡山間の長距離ケーブルを設置、'29(S4)通信用真空管の国産化計画など、日本の電気通信産業発展の基礎を築き、通信機器のトップメーカーになっていく。
 主な著書は、『電気工芸要覧』(1903)、『電影余録』(1914)、『支那の旅』(1925)、南部金十郎との共同編集『電気燈の功用』がある。享年63歳。
 1891(M22)甲武鉄道(中央線)開通により国分寺駅ができ、住宅開発企業が大規模な分譲を開始したことにより、国分寺・小金井の地区は都内に住む者にとっての別荘地として人気が高まる。'18(T7)前田はこの地域の土地を取得し、'24郷里・新潟県の醤油醸造業の旧家を買い取りこの地に運び、広々とした芝生を設けて巨大な梁を使った主屋を建築した。この庭園の設計は日比谷公園の設計者であり日本の公園の父と称された本多静六である。別荘として活用し、徳富蘇峰(6-1-8-13)や頭山満を度々この邸に招き憩いの場としていたことから『三楽荘』と命名された。現在は小金井市が借り受けて保全する公共緑地として「三楽の森公共緑地」や「三楽公園」として武蔵野の面影を色濃く残す自然として管理している。

<エジソンを唸らせた男 NEC創始者 岩垂 邦彦>
<日本の企業家活動シリーズNo.50>
<「明治・大正期の別邸敷地選定にみる国分寺崖線の風景文化論的研究」知子>


墓所

*墓石正面「前田家之墓」、裏面「大正十五年一月廿三日 嗣子 武夫 一週忌 前田武四郎 建之」。墓所右側に墓誌がある。墓誌は17才で亡くなった武夫から始まる。次が武四郎であり戒名は賢修院釋明朗。行年は65才と刻む。妻はチカ。


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