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みよし しょういち

三吉正一

みよし しょういち

1854.10(嘉永6)〜 1906.3.24(明治39)

明治期の電気技術者、実業家

埋葬場所: 9区 1種 10側 10番

 周防国岩国(山口県岩国市)出身。富岡製糸場に勤め、足踏製糸機械を発明。のち工部省の東京電信修技学校で学び、巻線機械を発明した。
 電信機械製造技手となったが、同郷の藤岡市助(逓信省技官・工部大学校教授)のすすめにより、1883(M16)にわが国最初の重電機メーカー三吉工場を東京芝に設立。 1887三吉電機工場となり電鉄用電動機などを製造した。同じ頃、藤岡が所属していた東京電燈株式会社が電球製造を試みたが上手くいかず、藤岡はイギリスでスインバーからガス応用のガラス細工の技術を修め帰国した。 1890東京電燈株式会社から独立した藤岡と「白熱舎」と名付けた電球製造事業の合資会社を東京京橋槍屋町に設立し、白熱電球の国産化に努めた。 最初は木綿糸でフィラメントを作ったが、エジソンが日本の竹を用いたと聞き、竹フィラメントの炭素電球12個を日本で初めて製造した。 日産八個から十個という少量の電球を製造したが、1894には月産四百個と増え、注文も殺到したので、1896資本金五万円で東京白熱電球製造株式会社を新たに設立した。 1898日清戦争後の不況により三吉電機工場は解散し、白熱舎の経営は三吉から藤岡に引き継がれた。1999企業名も「東京電気」に改められた。この東京電気は後の東芝となっていく。
 三吉は発明の才に恵まれ、職人肌であるとともに侠気があり、藤岡の成功も三吉によって支えられていた。 配下の徒弟を工手学校に通わせるなど後進の育成にも熱心で、重宗芳水(明電舎)、小田荘吉(小田電機工場)らを育てた。田岡忠次郎の著『故三吉正一君事蹟之大要』がある。 享年51歳。

<朝日日本歴史人物事典>
<近代日本の先駆者事典>


墓地

*墓石正面は「三吉家之墓」。右側に三吉正一の大きな碑が建つ。戒名は正導院電匠薫陶居士。


【白熱電灯に必要な電球の歴史】
 1800頃にハンフリー・デヴィが実験的に証明したことに始まり、W・ド・ラ・リュウが白金フィラメント球、フレデリック・ド・モレインが真空電球を発明。 実用化は1879ヨセフ・スワンとトーマス・エジソンがほぼ同時に真空炭素電球を作り出した。エジソンは京都八幡町の竹を炭素線の材料に使用したといわれる。


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