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くらた はくよう

倉田白羊

くらた はくよう

1881.12.25(明治14)〜 1938.11.29(昭和13)

明治・大正・昭和期の洋画家

埋葬場所: 15区 1種 14側

 埼玉県浦和出身。本名は重吉。父は漢学者の倉田努の次男として生まれる。一家で上京し、1894(M27)親戚で洋画家の浅井忠に師事し絵の勉強を始める。同じ門下生に石井柏亭がいた。1898浅井が教師を務める東京美術学校(東京芸大)に入学し、1901首席で卒業。同年、群馬県沼田中学校教師として迎えられるも、画家への思いを断ち切れず3年後に退職。中央新聞社を経て、時事新報社に勤務し、美術展評や挿絵の仕事に従事。それと並行し、太平洋画会、明治美術会、文展などの会員となり油絵を出品。この頃より、白羊の雅号を用い始めた。
 '07『つゆはれ』の作品が第1回文部省美術展覧会(文展)で入選。以降、2回、4回、6回でも入選し、6回目の入選作には夏目漱石から賛美を受けている。'08森田恒友(13-1-37-2)、石井柏亭、山本鼎による雑誌「方寸」の同人となる。同じ頃、「方寸」に集まっていた画家と、「スバル」系の詩人である北原白秋(10-1-2-6)、木下杢太郎(16-1-12-3)、長田秀雄、吉井勇らが、文学と美術との交流を図って興した会「パンの会」に参加。'12太平洋画会展示出品作『燈明台』を宮内省が買上げられ、画壇での地位を確立する。'15(T4)日本美術院洋画部同人(のち脱退)。同年に日比谷美術館で個展を開く。'16押川春浪を中心としたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」の旅行で朝鮮や満州を訪問し、この旅行で目にした大自然の魅力に取り付かれたことがきっかけで、以降の作品は日本の自然風物を詩情のこもった写実性の濃い画風へとなっていった。
 '17千葉県館山に居住。集まった小学校教諭らに、従来の美術教育ではなく、自らの感性で表現する自由画教育を奨励。千葉師範で研究がもたれ、県下に自由画が広まった。房州北条で自由画展を開催した。'22梅原龍三郎(5-1-7-43)、足立源一郎、小杉未醒、山本鼎など7名で「春陽会」を創立。同年、山本鼎に日本農民美術研究所副所長として招かれ、神科村大久保(長野県上田市)に転居、農民美術運動推進のため大きな役割を果した。
 '34(S9)晩年は持病の糖尿病が悪化し右目を失明。しかし絵を描き続け、'35春陽会に発表した『たき火』(210cm×275cm)は失明の不安を抱えながら渾身の力作で画壇で話題となった。その後も病をおして春陽会夏期洋画講習会の講師を務めるなど美術家の育成に尽力するも、病状は悪化し、'38完全に両目が失明し、同年死去。享年56歳。最後の作品は『冬の野』。その他の主な作品に『たそがれ』、『房州風景』など多数。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<上田人物伝など>


*墓石は「倉田白羊墓」、裏面「昭和十三年十一月二十九日信州神科村ノ山居シ歿ス 行年五十八歳 長男 平吉 建之」。左側に墓誌が建ち、倉田白羊は本名の「倉田重吉」として刻む。妻は英子(S27.9.11歿・62才)。長男は倉田平吉(H12.3.19没・88才)。平吉は日本美術家連盟事務局長を務めた。

*1910(M43)倉田白羊が房総に写生旅行中、根本村(南房総市白浜町)の小谷英子(こだにひでこ)と出会い結婚。英子は小谷網元の娘であり、アメリカ・カリフォルニア州モントレーでアワビ潜水器漁業を開拓し成功を収めた小谷源之助・仲治郎兄弟の実妹である。


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