メイン » » » 小森七郎
こもり しちろう

小森七郎

こもり しちろう

1873.10.6(明治6)〜 1962.9.26(昭和37)

明治・大正・昭和期の逓信官僚、NHK会長

埋葬場所: 12区 1種 2側

 栃木県出身。東京帝国大学卒業し、逓信省に入省。札幌、東京などの逓信局長を歴任。'26(T15)NHK(日本放送協会)の設立とともに常務理事となり、後に専務理事。'36.7.12(S11)初代会長の岩原謙三死去に伴い、第2代NHK会長に就任した(〜'43.5.15)。'56文化功労者。享年88歳。

<講談社日本人名大辞典>


【NHK会長時代の取り組み「ラジオからテレビジョンへ」:1936.7.12-1943.5.15】
 小森七郎が会長に就任した同月31日に、IOCより第12回オリンピック開催地が東京に決定、NHKラジオを通して全国民に活気を与えた。さらに、同年8月1日から開催された第11回オリンピックベルリン大会実況をテレビ放送、アイコノスコープカメラ、ブラウン管方式投写形受像機を使用(180本、25枚)、ベルリン市内25か所で受像公開した。また同盟通信・逓信省・日本電気と共同して、写真電送技術者の丹羽保次郎(10-1-2)を主として、オリンピックの写真のベルリン‐東京間8000kmの無線写真電送にも成功。大会実況もラジオを通して実況中継を行い、「前畑がんばれ」の名実況もNHKラジオからである。
 その後、大阪放送会館落成、各局に非常用電装置の設置、指定ラジオ相談所開設など内部の整えとともに、'37欧米でテレビの本放送が開始されるにあたり、東京オリンピックにそなえてテレビジョン研究施設を拡張、小型簡易の電界強度独定期の試作、電子式テレビの研究準備、受信菅の試作研究、放送装置試験法の制定、テレビジョン調査委員会の設置、撮像管(アイコノスコープ)の試作研究などに取り組む。
 '38.7.15日中戦争の影響で東京オリンピック中止が決定したが、翌年、内閣情報部の指導で「第1放送」「第2放送」を「全国放送」「都市放送」と改称、「全国放送」は大衆向けの時局講演・演芸・音楽、「都市放送」は知識層向けの専門的講演・講座・純文芸・純音楽などを編成。'39.8.7逓信省、標準受信機として放送局型を認定(昭23.1.31廃止)。同.8.19興亜逓信展覧会(東京・三越)で初めてテレビの受像を一般公開(~8.29)、以後各所で公開。'40.1.30逓信省、標準電波発射業務開始に伴い、全国中継線特性試験開始。同.4.13 技研からテレビドラマ『夕餉前」(伊馬鵜平作)実験放送。同.11.10 紀元2600年記念奉祝週間に特別番組編成、式典の実況を皇居前広場から中継(〜16日)。'41.5.10東京ほか主要6都市で電話線利用有線放送の試験放送開始(155kHz)。
 順調に来ていたが、同.12.5 情報局、対米開戦に備えて「国内放送非常態勢要綱」制定 本土空襲を想定し、放送は原則として東京発全国中継とローカル放送のみに限定・地方各局発全国中継と都市放送(第2放送)を廃止・防衛総司令部等からの直接放送・電波管制の実施・国民に対する終日ラジオ聴取の指示・空襲下の電波発射休止などを規定。同.12.8 太平洋戦争開戦の大本営陸海軍部発表を腹時ニュースで放送(前7:00)、軍艦行進曲の前奏でハワイ作戦の奇襲成功を報道(前11:30)。東京・大阪・名古屋の都市放送(第2放送)を午後から停止。開戦に伴い放送は原則として東京発全国中継またはローカル放送とし、『気象通報』『天気予報』中止、放送開始を前6:00(20分繰り上げ)、放送終了を後11:30(90分延長)とし1時間50分増、定時ニュースを1日11回に増加したほか臨時ニュースおよび実況は随時、警報等は既定放送を中断して放送となる。
 '42.2.18情報局、「戦争下の国内放送の基本方策」(長期建設戦に策応する国内放送の基本方針)を決定、戦争完遂に放送の全機能を動員するため放送番組はすべて国家目的に即応させることなどを規定された。'43.5.15会長の小森七郎退任、後任に下村宏就任した。

<日本放送協会総合技術研究所『五十年史』>


墓所

*墓石は和型「小森家之墓」、裏面「昭和十二年六月 小森七郎 建之」。右側に墓誌が建つ。戒名は壽徳院清艦義居士。妻は てる。長男の小森一郎(H8.4.5・行年89才)、京子(H13.12.20・行年85)も刻む。

*長男の小森一郎(H8.4.5・行年89才:同墓)の元妻は、「小森のおばちゃま」の愛称で親しまれた映画評論家でタレントの小森和子(1909.11.11-2005.1.8:染井霊園)。神戸のイギリスの船舶会社『P&O』の日本支店でOL生活を送っていた安彦(あびこ)和子と知り合い、1941(S16)結婚(一郎が33歳・和子が32歳)。戦争中は神奈川県藤沢市鵠沼に疎開し終戦を迎える。'47、雑誌『映画の友』で編集長をしていた淀川長治に声をかけられ、和子は映画評論家となる。'57一郎の浮気が原因で和子と離婚。翌年、和子は単身渡米しジェームズ・ディーンの墓参をし、ハリウッド関係者と親しくなる。ニューヨークで作家の檀一雄と恋愛関係になる。和子は奔放な性遍歴と率直な人柄の持ち主としても知られ、一郎と出会う前は、菊池寛や川口松太郎の愛人だったことを自ら述懐している。80年代から90年代にかけてバラエティ番組で活躍し、晩年は火傷やパーキンソン病、認知症など寝たきりであった。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・か | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。