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こいで まんじ

小出満二

こいで まんじ

1879.8.13(明治12)〜 1955.5.28(昭和30)

明治・大正・昭和期の農学者、教育者

埋葬場所: 26区 1種 2側

 兵庫県養父郡伊佐村出身。1906(M39)東京帝国大学卒業。卒業後、同大助手となり、'10鹿児島高等農林学校要員としてドイツやイギリスへ留学。'13米国を経て帰国。'14(T3)鹿児島高等農林学校教授に就任。'18〜'20シドニー大学に交換教授として赴任。'21文部省督学官、'30文部省が東京高等蚕糸学校長の時に図書館事務講習会講師を嘱託。
 九州帝国大学農学部教授に就任。兼務で、'36.10〜'38.4 第4代 鹿児島高等農林学校校長を歴任し、次いで、'38(S13)第3代 東京高等農林学校校長に任命される。'39拓殖科を増設。この年に栃木・群馬に500町歩の演習林を設ける。'40全校舎の落成を機会に独立記念式典を行う。太平洋戦争中は繰り上げ卒業を行い、'43東京第二臨時教員養成所(生物科)を併設するも、学徒動員により学業半ばで出陣をする学生を見送る。'44.4東京高等農林学校は東京農林専門学校に改称し、引き続き校長。なお、同時期に東京高等蚕糸学校は東京繊維専門学校に改称。戦後、'49東京農林専門学校は東京農工大学となる。'44.12停年退官となり、名誉教授。正三位。
 '51財団法人農民教育協会が教育事業を引き継ぎ誕生した鯉淵学園初代学園長(鯉淵学園農業栄養専門学校)に就任。 「国民の幸せは、食足りて礼節を知る、農村部がきちんとしていなきゃいけない。そこに住む人たちの心の平和が保てなければいけない」という発想から、当時としては新しい言葉であった「ヒューマニティー」という言葉を使った。 ヒューマニティーとは、広い視野・科学的な見方と実践力を身に付けさせたいという意味である。
 農業史研究、農業経済研究、農政研究を主とし、後に中国農業の研究を行い、論文「斉民要術の異版につきて」は評価が高い。 主な著書に『農業教育』、『但馬牛産論』、『農学・農業・教育論』、『農村史話』、『肥後国耕作聞書』、共著に『デンマルク農村生活』、『福岡県郷土読本』など。 昭和初期の公民教科書や女子実業新教科書(農業編)なども著す。享年76歳。


*洋型墓石に小さく十字が刻み「小出満二家墓」と刻む。裏面が墓誌となっている。同墓には娘で日本語教育の開拓者・指導者と称され多くの日本語教師を輩出した小出詞子、科学史研究家の吉村証子(6女)も眠る。同墓には小出姓(満二、貞子、行子、詞子)と鈴木姓(恒治、さや子、稔、法子)の人物が眠る。

*ヨミを「みつじ」とする文献もある。


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