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きたに すけとし

木谷資俊

きたに すけとし

1888.7.20(明治21)〜 1940.3.20(昭和15)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 9区 1種 19側

 広島県出身。木谷資宣の長男として生まれる。
 1909.5.27(M42)陸軍士官学校卒業(21期)。同期に冨永信政(後に大将)、阿部平輔(後に中将:11-1-24)、石原莞爾(後に中将で板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者)、塩田定市(後に中将:9-1-19)、岡宮夙夜(後に少将:9-1-20-15)、田中毅一(後に少将:12-1-13-5)、長崎守一(後に少将:2-1-7-8)、前野四郎(後に少将:16-1-11-12)らがいた。同.12.25砲兵少尉に任官。
 様々な要職を経て、'34.8.1(S9)砲兵監部員、'35.8.1大佐となり、野砲一連隊長に就任し日中戦争に従軍。中国東北部で指揮を執り、北東部の中国軍を抑制し、南進を続ける日本軍の後部補給線を確保した。
 '38.7.15少将に昇格し、重砲校幹事となる。陸軍屈指の砲兵射撃の実力の持ち主として更に期待され、'39.3.9野重砲第2旅団長に就任。しかし翌年逝去。享年51歳。従4位、勲2等旭日重光章、功3級金鵄勲章追贈、また一階級特進し中将となった。なお死因は待ち伏せをしていた中国軍に殺害された説も出たが、脚気が原因で北京の陸軍病院での病死であったと戦後の調査結果で判明している。

<日本陸軍将官総覧>
<陸海軍将官人事総覧>
<木谷資俊 - 中文百科知識(中国語翻訳にて)>


*墓石は和型「陸軍中将木谷資俊之墓」、裏面「昭和十六年三月 木谷宏 建之」。右面に木谷資俊の略歴が刻む。略歴は「軍司令官 多田駿 撰書」と刻む。墓所右側に墓誌があり、戒名は武彰院殿釋威得明俊大居士、行年は53歳と刻む。妻はミサコ。また「木谷家先祖代々之遺骨を納む 昭和三十一年七月十二日」とも刻む。


※多くの文献では「木谷」のヨミを「こだに」としているが、ご遺族様のご指摘により「きたに」が正しいとのことであるため、ここでは「きたに」とする。


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