岡山県御津郡大野村大字北長瀬(岡山市北区)出身。岸熊三郎の長男として生れる。中学の時に農家の稲扱い機を改良するなど創造力・研究心旺盛な性格であった。
1897(M30)岡山医学専門学校(旧制第三高等学校医学部・岡山医科大学の前身)卒業。在学中、同校の生理学教授であった荒木寅三郎に見定められ、日本で初めて耳鼻咽喉科という専門科を創設した金杉英五郎の医院を紹介され上京し入る。この頃、医者出身の政治家の後藤新平とは旧知の仲となる。
1899 文部省から選ばれドイツのハレ大学に留学し解剖学などを学ぶ。1901ドイツの医学博士学位号「ドクトル・メディチーネ」を取得し帰国した。その間、ドイツ人のゼルマと結婚し男子が誕生している。
'02 台湾総督府民生部長官の後藤新平から声をかけられ、台湾総督府に勤務することになり、台北医院における台湾初の耳鼻咽喉科の初代主任として台湾総督府医院医長 兼 医学校教授に任命された。この時、弱冠28歳であった。また台湾地方病伝染病調査委員も命ぜられ、風土病である甲状腺腫の病理・治療法の研究を行った。
'06.7 「小児の中耳炎に就いて」で京都大学より医学博士の学位を得る。同年、後藤新平が満鉄総裁への異動に伴い、後藤の懇願で南満州鉄道株式会社理事・南満州鉄道大連病院長への異動を命ぜられる。正6位に叙任され、翌年より満州へ。
'07 関東軍督府技師・民生部警務課 兼 満鉄大連病院長に着任。3年間現地で務めた。大連の医学発展に貢献した功績を称えられ院内に胸像が建てられたほか、ロシア皇帝より神聖アンナ2等勲章が授与された。
'13(T2)大連より引き上げた後、築地(東京都京橋区明石町)に耳鼻咽喉科医院を開業した。この頃、ゼルマ夫人との離婚訴訟がメディアを賑わせた。後妻の信榮との再婚もこの時期である(詳細は下記)。
医業の傍ら、刀剣、機械や自動車部品の改造などに興味を持ち工業関係などの研究をした。世間からは「医者の工業」と称され注目された。信州より織布職工を雇入れて「岸式人造絹糸」を発明して特許を出願。また製鉄の研究中に富山県剱岳で輝水鉛鉱モリブデンを発見し、それをきっかけに医院の隣りに「富山工業所」を作り、熔鉱炉を築いてモリブデン・スチールを鍛造。合金の中にモリブデンを少量添加すると、冶金的に熱に対する強度(熱脆性)が生じるため、エンジン用シリンダーの合金素材として利用することに着目し自動車や飛行機製作につなげた。これを機に後藤新平と提携して麹町内幸町に「東京自動車製作所」を作り、病院構内にも飛行機製作の工場を建てた。'14 東京大正博覧会には自作の自動車を出品。ガソリンエンジン研究開始。
東京帝国大学工学部出身の原愛次郎、佐々木利吉、長沼豊丸、山田米太郎、宗里悦太郎の協力により、モリブデン鋼を使用したルノー70馬力エンジン製作に従事し完成させる。'15.11.19 この発動機にモーリス・ファルマン1913年型機の機体に装着、飛行機「つるぎ号」(剣号)と名付けて発表した。国産は難しいと思われていた発電機や曲柄軸、クランク・シャフト、プロペラ(木製)なども自作製作し飛行機用発動機製作に成功した試作品の発表を、後藤新平ら50人余を招いて披露。井上武三郎中尉(その後も専属操縦士として活動し赤羽飛行製作所の操縦主任になる)の操縦で処女飛行に成功。'17 続いて初の国産機「第二つるぎ号」を完成させる。完成披露飛行の際に原愛次郎がカメラを持って同乗し撮影したのが、民間機初の空中撮影といわれる。
'17.10.28 医道に精進して20年であったが、医術をもって国家社会に貢献する以上に、空軍充実は国家安泰の絶対用件であり、この問題解決は自己に課せられた天職であると考え、飛行機製作に打ち込むために医者を辞した。この時43歳であった。自給自足の国産化こそ世界平和に通ずるという「天産自給の法」に基づき「岸科学研究所」を創立。鉄冶金研究、自動車製作、航空機製作、舗道研究などを手掛ける。鉄の精錬方法を研究し特許も得る。
帝国ホテルにて後藤新平や逓信大臣の田健治郎(2-1-6-6)らを招いて、医業から航空業界への転身表明の宴を開いた。私財を投げ売り、財閥の浅野総一郎などの後援で、同.12.1 北豊島郡岩淵町神谷(東京都北区)の荒川沿岸五万坪の用地に、飛行場と飛行機と発動機の一貫生産の目指す「赤羽航空機製作所」(岸飛行場)を創立。これは日本初の飛行機製造を手掛ける民間航空機製作所である。飛行場開場式をあげ、多数参列者の中、井上中尉がモ式一四年型で飛び、赤羽飛行場開設披露のビラをまいた。敷地内には飛行場、4機収容の格納庫、飛行機や発動機の工場、製鋼所などの他、宿舎も完備。従業員は60余人。さらに埼玉県大宮の氷川神社から猿田彦命の御影を勧請して赤羽神社を建立し、岸が自ら衣冠束帯で奉仕した。また少年飛行家を養成し卒業後は軍隊に入営させる飛行幼年学校の計画も掲げた。
'18 上野公園で開催された空中文明博覧会に発動機製作材料などを出品。飛行協会の審査委員に選出された。赤羽工場では第3つるぎ号から第6号機まで製造。台湾総督府警察航空班や陸軍に飛行機や発動機を納め、岸式マグネトーをスイスに輸出するほど成果を上げた。
しかし、'20 軍事用製鉄原料不足の陸軍省に国内に豊富にある砂鉄を圧搾熔結して団鉱を造り普通鉄鉱に代用する策を提言し、青森県下北半島の岸壁採掘を試みていたが、下北鉱山の経営失敗で負債を抱え、この煽りで赤羽飛行機工場の経営までもひっ迫することになる。職工給与不払いが続き始める。浅野総一郎の投資を得て再建に努力するも、'21.3 赤羽飛行機工場は閉鎖した。短期間の民間飛行機製造会社であったが、日本の航空機製造に多大な貢献をし、中島飛行機の中島知久平(9-1-2-3)らに影響を与えた。'23 民間航空事業功労者に選ばれる。
'21 倒産の失意に陥っていた岸に、前年末より東京市長に就任していた後藤新平の計らいで東京市電気局の理事に就任。東京市のごみ処理に悩む課題に、渋谷の東京市発電所構内に焼却処分法を研究して、考案「都市塵芥処理法」を提案した。議会での説明用の資料としてアニメーション映画を北山映画製作所に依頼して行う。これが日本初の線画を用いた化学映画といわれている。その他、'23 佐賀県呼子でアルミニュウムに関する研究所を立ち上げるなど再興に力を注いでいたところ、同.9.1 関東大震災発生。
帝都復興院が置かれた際に、総裁の後藤新平から技師として参画を任命され、都市計画・地質研究を行い道路計画にも創意。『最新舗装学』を刊行。特許も合わせて数十種に達した。'25 岡山県味野町の野崎塩田に試験所を設け、製塩鍋の改良、製塩能力を倍にする新方法を発見した。'28(S3)アルミナセメント製造の研究で商工省から第4回工業奨励金を交付されるなど多方面で活躍。
'28(S3) 技術向上だけでなく心の探求にも力を注ぎ、国教の確立や民心の安定を目指す。「思想上の困難に直面する日本を救うには敬神宗祖の精神を鼓舞しなくてはならない」として、まず全国の神社の立て直しを行った。渋谷道玄坂上に八意思兼神を主神とする神道系の新興宗教団体「明道会」を設立し、機関誌『国教』を月刊で発行する。信者は関東地域だけでなく東北にまで広がる。だが降霊や除霊、霊写真などの行為でお金を得ていたことから、'31詐欺罪で検挙さるも、精神鑑定によって誇大妄想患者と判定されたことで起訴は逃れた。明道会は当局の命令で解散させられたため、同年、大本教に入信。大本事件の公判では教主の出口王任三郎の特別弁護人として法廷にも立った。その後、解散させられていた明道会を、'34「惟神会」として再発足した。
技術書など研究論文も刊行しているが、『神霊と稲荷の本体』(1928)、『神道の批判』(1929)、『霊界の研究』(1932)、『教育と神霊学』(1934)、『眞の日本精神』(1934)など宗教本も多数刊行している。脳溢血に肺炎を併発し逝去。享年63歳。飛行機・自動車産業の父と称されている。1998(H10)没後61年、第二つるぎ号の試験飛行を撮影した映写フィルムなどが遺族によって国立博物館に寄贈された。
【ゼルマ夫人との離婚訴訟事件】
前妻のドイツ人のゼルマ夫人との離婚訴訟は、現代の芸能人の離婚問題のように当時のマスコミにさらされ世間が注目した。大正4年11月の読売新聞に掲載された記事などから、当時の状況をまとめる。
1899年、岸がドイツ留学をしていたときにドイツ人のゼルマと出会い、岸の熱烈なアプローチで結婚をするに至った。実は岸は初婚ではなく、留学前に結婚歴があり子どもも授かっていたが離別していたため、そのことをゼルマに話さずに再婚していた。ゼルマはその真相を知ることになり、岸は「隠したのはあなたを愛するあまりだ」と釈明した。ゼルマは了承し、間もなくゼルマとの間に長男の一麿が誕生。子どもが誕生してすぐに、岸は台湾への赴任を命ぜられたため、1902年、ゼルマと長男をドイツに残して台湾に行った。翌年、ドイツからゼルマが単身台湾に追いかけてきた。子どもをドイツにおいてきていることと、台湾での仕事に専念したかった岸は、ゼルマにドイツに帰るように説得する。その際、ゼルマに下記を文章にしたため誓った。子どもの養育費を毎月30円と生活費100円を終生送る。送金日を毎月5日とし義務を怠れば直ちに強制執行しても意義なしとする。岸の収入が月400円に達すれば仕送りを120円として、700円に達すれば130円とする。ゼルマは6月9日までにドイツに帰り子どもの教育に従事するようにとした。
これを受けたゼルマは一方的な岸に悩み、岸の恩師である金杉英五郎に相談。金杉は岸の態度を非難し忠告の手紙を出した。しかし、6月9日の期限が来てしまいゼルマはドイツに帰った。その時、ゼルマは岸の子どもを懐妊しており、ドイツにて次男のかづ太が誕生。岸は次男を認知して戸籍に入れている。なお岸は約束通り、子どもの養育費とゼルマの生活費を毎月送金。後に台湾、大連にて岸は医長として活躍し給料もあがったため、約束通り生活費を30円増額して送り続けていた。
1912.10(T1)岸からの送金が途絶え、音信も取れなくなる。同.12 突然、岸からゼルマに離婚訴訟があり、公示送達により答弁の機会もなく、ゼルマとの離婚の判決がくだされた。翌年、'13 岸はミカドホテル2代目経営者・後藤鉄二郎の養妹の信榮(1894生)と再婚した(後に子どもを5男3女儲ける)。
ゼルマは一方的な離婚に対して手紙を出すも返答がないため、'13.7 日本に赴き、執達吏に依頼をして、滞納の生活費を強制執行した。岸は直ちに異議の訴訟を起こす。ここで二人の問題が表沙汰となり、世間も注目することになった。
裁判の争点。岸は、ゼルマが長男の一麿を養育せず、他人に与えるとか売ったという噂があり契約を誠実に履行していなかった。よって契約を解除し離婚訴訟を起こした。裁判が確定したため証書に記載された義務は消滅していると主張。
一方のゼルマは、岸の主張は不実、不法なものである。契約を解除されたこともなく、一麿の教育も怠らず行っていたと主張。岸が雇ったドイツの探偵は、ドイツでは悪名高い探偵社で全く信用の価値はない。離婚訴訟はゼルマ不在に乗じた公示送達の方法で、ゼルマの答弁の機会を得ず、形式上離婚された形になっているが、この判決を知り東京控訴院に控訴中である。よって裁判は継続中で離婚は確定していない。また岸は次男の誕生を認知し戸籍に登録もしているが、次男の養育費は一銭も送金されていない。
読売新聞の掲載記事は細かく記載しており、最後は「この事件は皆さんはどう見るでしょうか、社会の判断を仰ぎます」という言葉で結ばれている。なお、結果は当時の男性優位の時代もあり、岸側が勝訴し、ゼルマとの離婚は成立。後妻の信榮との再婚も認められた。敗訴したゼルマや、長男の一麿、次男のかず太のその後は不明。
【飛行機の歴史】 |
1903.12.17 | ライト兄弟 動力を備えた重航空機「ライトフライヤー号」による世界初の有人飛行に成功 |
1906.10.22 | サントス・デュモン ヨーロッパ初の動力機の飛行に成功 |
1909.7.25 | ブレリオXI 世界で初めて英仏海峡を横断飛行したフランス機で、現代と同じ操縦方法を確立 |
1909 | アンリ・ファルマンIII 世界で初めて2名乗りのフランスの複葉機 |
1909 | カーチス・ゴールデンフライヤー 運動性が良く、停泊中の巡洋艦への着艦に成功。日本を含む世界の海軍は軍艦から航空機運用に注力し航空母艦への発展をする |
1910.12.19 | 徳川好敏・日野熊蔵 日本初の飛行(アンリ・ファルマン機)最高高度70m、最大速度70km/時、時速53km、飛行距離約3km、飛行時間4分 |
1911.5.5 | 奈良原三次 奈田原式2号が国産民間機として初飛行に成功。高度4m、距離約66m。 |
1912 | ドペルデュサン レーサー 速度記録を作るために制作された。最大速度209km/時を達成 |
1913 | ベノイストXIV 世界で最初に定期旅客路線を運航した飛行艇、アメリカの復葉機 |
1913 | 民間主導による航空振興を目的として帝国飛行協会創設 |
1914.6.13 | 坂本寿一 日本の帝国飛行協会主催の第1回民間飛行競技会が大阪で開かれ滞空時間31分22秒で1位 |
| 荻田常三郎 同大会の高度部門で高度2,003mを記録して1位
※1914.7.28以降は、改良が重ねられ、第一次世界大戦の軍用機の実用化へとなっていく |
1915.11.19 | 岸一太 飛行機「つるぎ号」製作 |
1916 | 岸一太 モリブデン鋼シリンダー開発 |
1917 | 岸一太 完全国産化の飛行機「第二つるぎ号」製作 |
1917.12.1 | 岸一太 日本初の民間航空会社「赤羽航空機製作所」(岸飛行場)を創立 |
1920 | 陸軍省内に航空局設置、航空法制定
※この頃は日本航空開発はピークとなり、数々の世界記録を樹立 |
1922 | 兵頭精 日本初の女性操縦士第一号 |
1922.11.15 | 日本初の民間定期航空路開通。堺−高松線(週に往復3便) |
1931.4 | 日本初のフライトアテンダント(スチュワーデス)「エア・ガール」と称され4人搭乗 |