奈良県五條市出身。木村猪蔵・マス(共に同墓)の長男。七高造士館を経て、1911(M44)東京帝国大学法学部卒業。弁護士として活動し、帝国弁護士会理事長を務めた。
1946.2(S21)幣原内閣の検事総長に就任。同年5.22、第1次吉田内閣の民間人閣僚として司法大臣に抜擢され、日本国憲法制定に署名した。'49.2.16第3次吉田内閣の法務総裁及び法務大臣。
'52.10.30第4次吉田内閣の国務大臣となり、警察予備隊の発足に尽力し、初代保安庁長官に就任。また行政管理庁長官も務めた。'53.5.21第5次吉田内閣の国務大臣、保安庁長官に再任。
また'51.4東京弁護士会会長に就任する一方、'53.4.24第3回参議院議員通常選挙で当選、自民党内のタカ派として活動。
'54自衛隊の創設に力を注ぎ、初代防衛庁長官に就任している。'59参議院議員再選、憲法調査委員会委員長を務める。'64.11.3勲一等瑞宝章受章。
'60〜'74自衛隊員(自衛官をはじめ防衛省職員をふくむ)のOB組織である社団法人隊友会が発足され初代会長に推された。'67.10自由民主党同志会会長に就任し、没するまで会長職を全うした。'74.11.3勲一等旭日大綬章受章。
学生の頃から北辰一刀流で修行した剣道家としても活動し、称号は錬士。敗戦後、軍国主義の温床と非難されGHQによって大日本武徳会は解散させられたが、剣道解禁に向けて奔走し、'52剣道が解禁。
同年.10.14全日本剣道連盟が結成され初代会長となる。'74より名誉会長。著書に『卆翁百話 文と武の遺文』。遺訓は『一源三流』。従四位。享年96歳。正三位追贈。
妻はアイ。長男は木村剛輔、剛輔の妻は明子(全員同墓)。木村剛輔は政治学者、政治家として活動した。
*墓石は和型で「木邨家之墓」。右側に墓誌があり、戒名は大雄院殿徹譽法巖篤翁襌定門。
*奈良県五條市新町通りの生家は「まちや館」として篤太郎の遺品などが展示されている。
*1952.5.1(S27)法務総裁を務めていた木村篤太郎は戦犯の国内法上の解釈について、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」とする通達をした。
これにより、戦傷病者戦没者遺族等援護法も一部改正され、遺族年金や恩給の対象とされていなかった今までと変更し、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。
*1953(S28)小谷喜美(16-1-2-10)の霊友会が摘発を受けた際に、当時吉田内閣の保安庁長官の木村篤太郎が300万円を超える多額の献金を受け取っていたことが明るみとなり、政界疑獄事件に発展した事件が起きた。この件に関して木村篤太郎は証拠不十分とされた。