メイン » » » 川尻東次
かわじり とうじ

川尻東次

かわじり とうじ

1908.10.30(明治41)〜 1932.11.26(昭和7)

大正・昭和期の童画家、劇作家、
演出家、人形劇団プーク創立者

埋葬場所: 13区 2種 12側

 東京出身。父の川尻東馬(同墓)は東京毎日新聞記者で川尻琴湖の名として筆を揮った著名なジャーナリスト。また母の川尻清野(同墓)はプークの代表も務め、プロレタリア文化運動の活動家。長男として生まれる。妹の則子は俳優の西村晃(12-2-37-23)に嫁いだ。
 中学を卒業後、絵を岡本帰一に学び、『子供之友』『少年戦旗』『世界童話体系』などの表紙や裏表紙に挿絵や漫画を担当した。力強い線による描写が特徴的であった。開成中学在学中より人形劇も始め、1926(T14)ダナ人形座、'27(S2)に人形クラブで美術と演出、人形製作を担当した。そして、'29『人形劇団プーク』(PUK)を創立。創立上演は人形クラブで旗上げ。なおこの時、川尻東次は21歳であった。
 代表作「狼の目薬」('30、作・演出)「裸の王様」('30、脚色・演出・美術)。人形劇団プークを創立して3年後、川尻東次は、志半ば、弱冠24歳という若さで逝去。東次の言葉「たとえ ひとりになっても私は歩みをやめない。新しい仲間は必ず集まってくる。プークがやろうとするのはそのような人形劇の仕事だ!」とプーク人形劇場の正面口に刻まれている。なお人形劇団プークは弟の川尻泰司(同墓)が引き継いだ。

<児童文学事典>
<日本児童文学大事典など>


墓所

*墓石は正面洋型「川尻東次之墓 1908.10.30-1932.11.26」、墓石の上に人形を模したブロンズ像が座っている。墓石右に寝石墓誌「川尻 東馬 1924.2.16没 / 清野 1947.7.31没」。墓石左に寝石墓誌「川尻洋子 1923.9.17-1969.8.7」。墓石後ろの壁左上に「川尻泰司 1914.6.15-1994.6.25」、その下に「川尻恵美子 1933.4.14-2009.12.12」。墓石後ろの壁右上に「川尻原次 1943.11.11-1985.2.9」。


【劇団の名称「プーク」(PUK)の由来について】
 人形劇団プークは1929(S44)に創立された。創立のときの劇団の名は「人形クラブ」。
 人形クラブを創立した時代、1920年代はヨーロッパ全土を巻き込んだ第1次世界大戦がようやく終わり、二度と戦争を起こすまいとの願いから、様々な平和のための運動がおた。 ロマン・ローランやジョリオ・キューリーらの「平和の擁護」運動や中部ヨーロッパを中心とする青年たちの「ワンダーフォーゲル」運動などがあるが、その中のひとつに「言語の違いが意志の疎通の障害になり、 それが戦争につながる」と考えたザメンホフが、創案した国際共通語エスペラント(希望の人の意)運動がある。 プークを創立した青年たちは、このエスペラント運動にも関心をもっていたことから、自分たちが創った「人形クラブ」の名を、国際的にはエスペラント語で『LA PUPA KLUBO』正式名称とし、仲間内では、人形を意味するPUPAの "PU"と、クラブを意味するKLUBOの "K" をとって PUK(プーク)と略称でよんだ。 それがいつしか人形クラブの通称となり定着していく。戦後、'46年11月、劇団を再建にあたり、劇団名を 正式に「人形劇団プーク」 とした。これがプーク=PUKの名の由来です。

墓 右側 墓 左側 像



第364回 人形劇団プーク 川尻東次 川尻泰司 お墓ツアー


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・か行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。