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かわじり たいじ

川尻泰司

かわじり たいじ

1914.6.15(大正3)〜 1994.6.25(平成6)

昭和期の人形劇演出家・
脚本家・人形劇団プーク代表

埋葬場所: 13区 2種 12側

 東京出身。東京府立第八中学校卒。同校在学中、兄の川尻東次(同墓)の影響により人形劇団プークの活動に参加。 1931(S6)劇団員となり、美術、人形製作、演出をはじめ戯曲「こばんいただき」を創作。'32兄の没後同劇団を主宰。 日本の伝統人形の構造と手使い人形を組み合わせた両手使い人形を創案し、表現の幅を広げる。 戦時中は弾圧をうけ、劇団活動を禁止されるが、戦後再開し、人形劇の芸術の可能性を求めて「百姓イワンものがたり」「昔話桃太郎」「みにくいアヒルの子」「彦一とんち話」「青い鳥」などを発表。 '53日本最初のカラー人形映画「セロ弾きのゴーシュ」をはじめ「アラジンの不思議なランプ」「月の物語」「アラビアン・ナイト」を制作する。'61棒使い人形劇「逃げだしたジュピター」で文部省芸術祭演劇部門奨励賞、'67日本の児童文化の向上に功績があったとして第二回モービル児童文化賞、'80怪談噺「牡丹燈籠」で芸術祭大衆芸能部門の大賞、'83芸能功労者賞を受ける。'71文楽以外では日本初の人形劇専門劇場「プーク人形劇場」を完成させた。 代表作「ドン太の樽屋」「ファウスト博士」「人形日本風土記」ほか多数。 子どものための人形劇の著書に『人形劇の本』(1956)、『人形劇ノート』(68)、『絵で語る人形劇セミナー』全四巻(83)、『現代人形劇創造の半世紀』(84、共編)、『日本人形劇発達史・考』(86)がある。 ウニマ本部執行委員、日本ウニマ名誉会長、日本人形劇人協会長、日本人形劇研究所所長なども務めた。'71(昭46)プーク人形劇揚が渋谷区代々木に開場した。日本最初の人形劇常設劇場である。

<児童文学事典>
<現代物故者事典1994-1996>
<MATHU様より情報提供>


墓所

*墓石は正面洋型「川尻東次之墓 1908.10.30-1932.11.26」、墓石の上に人形を模したブロンズ像が座っている。墓石右に寝石墓誌「川尻 東馬 1924.2.16没 / 清野 1947.7.31没」。墓石左に寝石墓誌「川尻洋子 1923.9.17-1969.8.7」。墓石後ろの壁左上に「川尻泰司 1914.6.15-1994.6.25」、その下に「川尻恵美子 1933.4.14-2009.12.12」。墓石後ろの壁右上に「川尻原次 1943.11.11-1985.2.9」。川尻原次は息子であり人形劇俳優・演出家として活躍した。


【劇団の名称「プーク」(PUK)の由来について】
 人形劇団プークは1929(S44)に創立された。創立のときの劇団の名は「人形クラブ」。
 人形クラブを創立した時代、1920年代はヨーロッパ全土を巻き込んだ第1次世界大戦がようやく終わり、二度と戦争を起こすまいとの願いから、様々な平和のための運動がおた。 ロマン・ローランやジョリオ・キューリーらの「平和の擁護」運動や中部ヨーロッパを中心とする青年たちの「ワンダーフォーゲル」運動などがあるが、その中のひとつに「言語の違いが意志の疎通の障害になり、それが戦争につながる」と考えたザメンホフが、創案した国際共通語エスペラント(希望の人の意)運動がある。 プークを創立した青年たちは、このエスペラント運動にも関心をもっていたことから、自分たちが創った「人形クラブ」の名を、国際的にはエスペラント語で『LA PUPA KLUBO』正式名称とし、仲間内では、人形を意味するPUPAの "PU"と、クラブを意味するKLUBOの "K" をとって PUK(プーク)と略称でよんだ。 それがいつしか人形クラブの通称となり定着していく。戦後、'46年11月、劇団を再建にあたり、劇団名を 正式に「人形劇団プーク」 とした。これがプーク=PUKの名の由来です。

墓 右側 墓 左側 像



第364回 人形劇団プーク 川尻東次 川尻泰司 お墓ツアー


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