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かげやま ひとし

景山 齊

かげやま ひとし

1879.2.13(明治12)〜 1971.10.13(昭和46)

明治・大正・昭和期の機械技術者(八幡製鐵所)

埋葬場所: 16区 1種 3側 6番

 島根県出身。松江中学、第四高等学校を経て、1906(M39)京都帝国大学機械工学科卒業。同期に小野鑑正(10-1-4)がいる。後に小野鑑正の妹と結婚する。 肺炎を患い一年卒業が遅れた景山に対し、大学時代の恩師のはからいで関西鉄道に入社。新車両の設計に従事していたが、一年後、義父の小野正作からの勧誘に加え、恩師の朝永教授や大阪高工の安永校長の薦めもあり、1907.4(M40)官営八幡製鐵所に転職、技手の資格で入社。工務部工作科工場主任および設計主任となる。
 1901(M34)日清戦争で得たお金で官営八幡製鐵所が福岡県遠賀郡八幡村(北九州市八幡東区)で操業を開始したが、操業に先立って、官営八幡製鐵所では本格的な大規模鉄骨工場が建設された。 当時はドイツ人技師を雇用し、技術導入をしながら建設を進めていた。しかし成果があがっていなかった。ドイツ人技師は解雇され、日本の技術者たちが力を合わせ、日露戦争後増大する国内鉄鋼需要をまかなうため、4年で八幡製鐵所の能力を3倍にする第一次拡張計画が実行に移され、他の企業で実績があり即戦力となる技術者を全国各地から招聘していた。景山が八幡製鐵所に機械技術者として入社したのは、その頃であった。
 入社当時、日本の鉄骨建造物が全て外国の鉄製で外国人の設計によるものであることを憤慨し、日本の鉄と技術で鉄骨建造物を建設したいと考えた。そのため、機械工学科出身であるが、大学時代に基礎を学んだ土木設計技術を再度自力で勉強し直した。 '09景山の設計で、全て八幡製鐵所の鉄を用いた純国産の鉄骨建造物、国産第一号の「八幡製鐵所ロール旋削工場」(幅20m、長さ100m)竣工、完成させた。 この快挙は、鉄骨構造物設計の国産技術のレベルの高さを証明するものとなり、日本中に鉄骨建造物の建設ラッシュを巻き起こした。これに伴い、国内の鉄骨建造物の建設を任されることとなった。築地の海軍工廠製鋼工場上家や小石川陸軍工廠銃砲工場上家、堂山ロール鋳造工場などを設計した。
 '15(T4)工作課長に昇進。'21国会議事堂建設の鉄骨構造の設計施工の責任者に任ぜられた。9800トンという膨大な鉄骨を用いた大事業に取り組み、'27(S2)完遂。仕事は慎重綿密で、議事堂の鉄骨トラスを八幡構内で一旦仮組みし強度確認する念の入れようであったという。
 工務部長時代は、高炉、ロール鋳造機、圧延機の設計に手腕を振るう。また、技能工養成学校、各種の福利厚生や教育機関の建設も手掛ける。鋼材部長時代は、洞岡地区や戸畑地区の拡張、ストリップ工場(薄板連続圧延工場)の建設など、八幡製鐵所の度重なる大拡張事業を次々に成功させ、世界有数の一貫製鐵所へ育て上げた。
 '34.1.29(S9)官営製鐵所や九州製鋼などが合同し、日本製鐵株式會社(日鉄)発足に伴い、技師長に就任した。'36本社常務として臨時建設局長を勤め、昭和10年代の日中戦争前夜の鉄鋼大増産要請に対応すべく、当時のお金で6億8千万円という巨額投資となった輪西、広畑、北朝鮮の清津の大拡張事業を推進した。
 '41〜'45太平洋戦争の最中、日本製鉄株式会社八幡製鐵所所長・同社長室勤務取締役に就任。八幡で製鉄事業を統率し、幾多の空爆にも耐えながら鉄の供給基地の最前線を終戦直前まで守り抜いた。'45本社技監を歴任。引退後、『製鐵むかしがたり』という自叙伝を執筆(非売品)。
 日本の鉄骨構造物設計者の草分けであり、明治・大正・昭和の八幡製鐵所の礎を築いた人物の一人である。享年92歳。

<京機短信第133号、134号「鉄都に生きた男たち」 京機会など>


*墓石は和型「景山家墓」。裏面に昭和十九年三月 景山齊 建之と刻む。それ以外の刻みがなく、また墓誌もない。

*妻は機械工業界の基礎を築いた機械技術者の小野正作(1851-1942)の娘。兄が三人おり、長男の職造は早死。次男で嫡男となった機械工学者の小野鑑正(10-1-4)。三男の小野正三は川西航空機技師を務めた。小野鑑正は大学時代の同期生であり、義父の小野正作には八幡製鐵所への転職を斡旋してもらった人物である。


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