江戸御徒町出身。御家人の小野鑑吉郎徳基(同墓)の子として生まれる。1859(安政6)父の箱館奉行所転勤に同行。1862(文久2)家族で江戸に戻る。漢学や唐様の習字を習い、伊庭軍兵衛の道場で剣術を始めた。1864(元治1)将軍徳川家茂の進発の道中宿割のため先行する父に用人として随行。京都・大坂を経て広島に至る。大坂では当初宿泊した平野町会所で同所を預かる平野屋和助に学問を学び、七言絶句を作れるようになった。1865(慶応1)父を大阪に残し江戸に戻る。1867(慶応3)練塀小路の古屋作左衛門の英学塾、蒸気機関専攻のイギリス海軍伝習生、イギリス人ロブソンから数学など勉学に励む。戊辰戦争のため海軍伝習が中止となり、疎開する。
1869(M2)外国に興味を持ち、語学を学ぶために横浜に出る。しかし、洋館にコネがないため、祖母の甥の妻の里からの中村暁長を頼り、1870.1横須賀製鉄所へ図工見習として入所。お雇い外国人について製図技術を学びながら、フランス語も習得した。1872製図場内で通訳としても活躍していたことが認められ、職工としては異例の速さで官吏に登用された。だが、その5か月後に、造船所を引き継いだ海軍省主船寮によって、他の職工からの登用者とともに雇の身分に落とされ、抗議をするも叶わず。また、海軍は、フランス人の責任者ヴェルニーに支配されていることを嫌がり追い出しをはかったことに対して、小野は半年間のストライキ後、辞職が認められ横須賀を去った。
1873.5工部省に転任していた元通訳の山崎直胤を頼り、ウィーン万博への同行を望むが随員が決定しており断られ、長崎造船所を紹介され着任。製図場に勤務し、日本側の責任者となる。船渠の建設工事や機関の設計、通訳も務めた。
1882.12工部省赤羽工作分局に転勤し、機械工場担当となる。1883.3赤羽工作分局廃止により海軍省兵器局に工場ごと移管。第一工場の機械室長を経て、第一工場長となる。1887.12初の国産鋼製砲の砲身加工をめぐるトラブルで依願退官。
1888農商務省商務局の長品川忠道が取り組んだ日本製鉄会社の創立事業に参加。同.3赤羽工作分局時代の旧知の山田要吉の紹介で、機械技術者として、東芝の前身の会社である田中製造所に就業する。当時は海軍省水雷局の要請を受けて水雷の製造にあたっていた。1889.8職工の管理強化を中心とする工場の改革に取り組むが、反発した職工達が同盟罷工。結局、上手くいかず辞職した。
1890相田吉五郎の紹介で、その後任として本所安宅町の合資経営製罐工場安宅製作所に雇われ経営者となり、機械工場に発展させる。1891家族で大阪に移動し、馬場道久に雇われ汽船「神通丸」の機関改造などを担当する。同.6 日立造船の前身の会社である大阪鉄工所に技師長をして就職。大阪鉄工所は従来官営造船所やそれを継承した工場でしか作られていなかった鉄・鋼製船体や三連成機関を製造して、工場払下を受けた川崎造船や三菱に競争を挑んだ。これが日本で近代的な汽船が造船所間の競争を伴いながら作られた最初であり、産業としての近代造船業の誕生の瞬間であった。技師長として、最大顧客である大阪商船会社との対応の技術面の窓口となり、同所初の三連成機関の設計を行うなど力を振るう。日清戦争もここで迎え、ベアリング用砲金の質の向上で好評を博し、また鉄製浚渫船の受注に成功する。日清戦争が終わると、軍需小汽船の建造や引き揚げに備えた消毒所向けの機械製造など手がけるが、作業の手順の問題で経営者と対立して辞職する。
1895(M28)新設の淀川汽船会社のために淀川蒸気船を設計し、機関の製造を監督した。久松鉄工所で若主人に製図を教え、株式会社化の計画に加わったが挫折。また、小規模ながら船渠(ドック)を持っていた鳥羽造船所の再興を試みるも出資者との対立により退く。同年、江戸堀北通に転居し、自ら起業し小野工業事務所を開いた。しかし、図面が業者間で転用されてしまうこともあって経営は思わしくなく、事務所をたたむ。1897.6船主の原田十次郎の紹介で小野鉄工所の技師となるが、二年後に辞した。1899.11船主の尼崎伊三郎の紹介で安治川筋の新隈鉄工所の技師となる。
1901.2(M34)赤羽根工作分局の同僚で八幡の製鉄所製品部長兼機械科長となっていた安永義章を訪ね、製鉄所に採用されることになり転住。官営八幡製鉄所の修繕工場に勤務。'02.2.1高等官六等の技師に昇任し、その後、三等まで累進。修理・模造を中心に活躍した。工作課長で製鉄所建設に従事。この時に、娘婿である景山斎(16-1-3-6)を招き入れている。'15.10.4事務都合により休職していたが、2年後の休職満期により免官した。
明治期の日本の機械工業は、輸入した機械を修理して、また進んだ機械の国産化を進めていく。最初は機械を全部輸入して使っていた。それの国産化を進める一方、地域的にも経営の規模でも厚みをもって展開しているのが特徴。その中で中小業者が在来産業、製糸業とか織物などに使える機械をつくる。そのような要求にもこたえて、幅広く機械類をつくって明治期の経済発展あるいは日本の産業革命を支えていったのが日本の機械工業だった。
隠居後は、'19(T10)〜'35(S10)までにかけて回想録を執筆した。享年91歳。鈴木淳の著作に『ある技術家の回想−明治草創期の日本機械工業界と小野正作』がある。
*墓所入口に左から「小野家墓所」「田邉家墓所」「田口家墓所」の石柱が建つ。墓石は寝石で何も刻まれていない。二つの線香立てに左から「小野」「田邉」と刻む。
右側に墓誌が建つ。小野正作や家を継いだ応用力学者の小野鑑正は俗名、没年月日、行年のみ刻む。小野鑑正のところには「正三位 勲一等 学士院会員 文化功労者」と刻む。
小野鑑正の次は、小野敏和が刻む(平成十一年に五十才で没)。同年、八十三才で没した田邉和が並ぶ。次に、明治大正で亡くなっている小野正作の父母が並び、平成二十三年に亡くなった田邉芳、平成二十年に亡くなった田口建三が並んで刻む。
*小野敏和が平成十一年に亡くなった後に、小野正作の父母が刻まれていることから、小野姓の跡継ぎがおらず、菩提寺から改葬されたと推測される。
*小野正作の父は小野鑑吉郎徳基(明治二十四年六月二十五日・六十四才と刻む)。箱館奉行などを務めた御家人である。戒名は乗蓮院明徳壽寶居士。母は よね(大正二年四月二十日・八十四才と刻む)。戒名は法蓮院性徳寶善大姉。
*小野正作の妻は 幾き。正作が亡くなった二日後に没す。長男の職造(1879生。墓誌には刻まれていない)は誕生すぐに夭折。次男の小野鑑正(同墓)は九州帝国大学工学部教授から東京帝国大学工学部教授となった機械学会会長を務めた応用力学者。
三男の小野正三は東京帝国大学航空研究所助教授から川西航空(新明和)機技師となった。娘婿の景山斎(16-1-3-6)は機械技術者・八幡製鉄所所長。