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かえつ さとし

嘉悦 敏

かえつ さとし

1969(明治2)〜 1944.1.24(昭和19)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(少将)、霊界研究家

埋葬場所: 9区 1種 27側

 熊本県出身。嘉悦悪四郎泰長を大先祖とする熊本細川藩の名家である嘉悦家に、父で熊本藩家老・儒学者・政治家で横井小楠門下の四天王といわれた嘉悦氏房・母の久の次男として生まれる。
 1891.7.20(M24)陸軍士官学校卒業(2期)、翌年騎兵少尉に任官。日清戦争に出征し殊勲を奏し、功5級金鵄勲章を賜う。1911.5.19(M44)騎兵第26連隊長などを歴任。 '12.1.19参謀本部付となり、雲南へ派遣された。これは'11.10.10中国(清)にて革命派の軍隊が蜂起した辛亥革命が起こったため、嘉悦と高山公通(21-1-31-1)らが情報将校へ転身させられ、雲南方面に独立国を作るための構想に基づく調査派遣が主な任務であった。
 '13.4.15(T2)任務が解かれ、騎兵第1連隊付に戻される。同.8.22大佐に昇進し、騎兵第23連隊長に就任した。'15.8.10軍馬補充部付を経て、'16.8.18第2代 静岡俘虜収容所長となる。'18.7.24少将に累進したと同時に待命。'19.1.15予備。
 軍退役後は霊界研究の道に入る。国民自健術という健康法を創始し普及活動を行い、精神団体「きよめ会」を主宰して霊界研究界で知名度を持った。 特に中年婦人に指示を得て、代議士の高橋保の妻である高橋むつ子や、男爵・貴族院議員の島津長丸の妻であり(死別後入信)、 皇后の母といとこ関係で皇后の女官長を務めていた島津治子(後、皇室関係者でありながら不敬罪で逮捕され前代未聞の大事件を起こした人物)などがいた。 『霊界の神秘』を探求し、また人々がいかにして明るい希望を持って生きられるかなどの真面目な会合が開かれていたらしい。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<「歴史読本 天皇と華族」(島津治子不尊事件の謎)>


墓所

*墓石は和型「嘉悦家之墓」。右側に墓誌があり、俗名・没年月日・行年が刻む。

*嘉悦敏は3男2女の兄姉妹弟がいる。兄で長男の嘉悦博矩は宮崎県師範学校などの教育者から日本鉄道会社の幹部となった実業家。博矩の三男の嘉悦三毅夫は陸軍軍医中将。 姉で長女の嘉悦孝は日本初の女子商業教育校である私立女子商業学校(嘉悦学園)の創立者。妹で二女の末子は日本女子商業学校理事の小田網太郎に嫁ぐ。 弟で三男の嘉悦龍人は、海軍兵学校に入るも病を得て退学し慶応義塾大学に進み日本外史を研究した。龍人の子の嘉悦康人は『嘉悦孝子伝』を著した人物。妻は池辺氏の出、嘉鶴子。

*嘉悦家の菩提寺は流長院(熊本)。嘉悦孝の墓所は神奈川県横浜市鶴見区にある曹洞宗大本山總持寺(西望1-4)。隣りの隣りの列には俳優の石原裕次郎(西望1-6)が眠る。

*不敬事件=当時の日本は独伊のヒトラーやムッソリーニ礼讚一色で、親英米の人々や平和志向者は「自由主義者」として社会的悪者の烙印を押されていた。 したがって思想統制が一段と厳しく、とくに新興宗教、類似宗教に対しては社会不安を助長する、不敬罪に当たるなどと当局は眼を光らせていた。 多磨霊園に眠る人物で不敬罪になった人物には、美濃部達吉(25-1-24-1)と内村鑑三(8-1-16-29)などがいる。

*美濃部達吉:天皇機関説が反国体的だと議会で問題にされ天皇への不敬だという理由。 内村鑑三:天皇の署名のある勅語に教員及び生徒が最敬礼をする際、 嘱託教員でキリスト教徒であったので軽く頭を下げてすませ礼拝を拒んだことが非国民とされ不敬罪になった。


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