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ごうだ きよし

合田 清

ごうだ きよし

1862(文久2.5.7)〜 1938.5.6(昭和13)

明治・大正期の木版画家、フランス語教育者

埋葬場所: 8区 2種 30側 10番

 江戸赤坂出身。旗本の田嶋鍋吉(同墓)の次男。旧姓は田嶋。兄の田嶋應親(同墓)は幕臣・仏語通訳や初期の陸軍で活躍した陸軍大佐。應親が儒者の合田錦園の長女の治子(同墓)と結婚し、清は合田錦園の次女の舜子(同墓)と結婚し婿養子となる。
 合田錦園から和漢学を修める。1880(M13)兄の田嶋應親が駐仏武官に任ぜられ渡仏する際に、農学研究を志し同行。当地同宿で交流があった画学生の山本芳翠の薦めで木版画に転向した。フランスで木版画の大家シャルル・バルバンの工房で木口彫(西洋木版)を学ぶ。一方、画学専門夜学校主のバーニスに絵を習い、フランス語をアルカンボーに学んだ。パリでは原田直次郎、黒田清輝、五姓田義松などとも交流した。
 1885.5 パリで開かれた美術展覧会に画家モンバールが描いた景色の密画を彫刻した木版画を出品して認められる。1886.2バルバン工房を卒業し、次いで彫刻師チリャの工房に通学した。同.5 パリの美術展覧会に画家エミル・アダムの農夫が家に帰る図を彫刻した木版画を出品し、前回に勝る賞賛を受けた。1887.4チリャの元を離れ、翌月よりパリ「モンド・イリュストレー新聞社」から日本特別通信員を嘱託され挿絵彫刻者となる。同.7 山本芳翠と帰朝。
 1888.3秀英舎(大日本印刷の前身)の佐久間貞一の援助を受け、東京芝区に山本芳翠と「生巧館」と称した木版彫刻所を開いた。生巧館は一階が合田の木版部、二階が芳翠の画学校。小口彫(西洋木版彫刻)を教え、かたわら彫刻の依頼に応じた。同.7.10大阪から進出した「東京朝日新聞」創刊号の付録として山本芳翠原画・合田清刻≪貴顕之肖像≫(明治天皇像)、同.7.15磐梯山噴火の折、芳翠が現地に出張し惨状を直接下絵を描き、合田が彫刻した≪磐梯山噴火真図≫が、同.8.1附の新聞付録となり、初期の代表作となる。また元日号に毎年、干支にちなんだ生巧館刻の摺り物を付録とするのが恒例となった。その他、各画一枚物の他、文部省の嘱託を受けた高等読本・教科書の挿絵彫刻、『谷間の姫百合』(全4冊)、『国民之友』『太陽』『日清戦争実記』といった雑誌の表紙や挿絵、単行本の口絵・挿絵など幅広く手懸けた。1891業務繁忙となり赤坂区溜池に生巧館工場を設立し、日本に本格的な西洋木口木版を定着させる。
 1893帰朝した黒田清輝、久米桂一郎らに、翌年芝区の生巧館を譲り、洋画指導研究所「天真道場」が開所された。合田は麹町の黒田邸と背中合わせの地に住み、黒田と頻繁な交流が結ばれた。黒田が日清戦争の従軍画家として送った作品を版に附して「ル・モンド・イリュストレ」に送ったり、1896黒田や久米らと洋画家体白馬会の創立に参加した。また、1896黒田の推薦で東京美術学校の教授となりフランス語講師を務めた。1899.8臨時博覧会鑑査官となる。同.12東京美術学校教授を辞す。同時期に溜池の生巧館の一部を開放して白馬会絵画研究所を開設。そこに学んだ岸田劉生(12-1-11-11)、清宮彬、岡本帰一、木版部の菊地武嗣、山形駒太郎、馬淵録太郎らによって版画雑誌『白刀』が発刊される(1909・1910)。
 1900.2パリ万国博覧会出品連合協会委員としてフランスに渡航、教育部主任として監督した。なお博覧会に自分も木版画を出品。翌年帰国し、再び東京美術学校フランス語教授に復帰、以後約30年務めた。1903 第5回内国勧業博覧会審査官を務めた。享年76歳。

<コンサイス日本人名事典>
<新潮人名辞典>
<近代日本版画家名覧>
<明治時代史大辞典>


墓所

*墓所には右側が和型「合田家之墓」、左側が和型「田嶋家之墓」。田嶋家は合田の生家、合田家に婿養子となった。それぞれの墓石の左面が墓誌となっており、俗名・没年月日・行年が刻む。合田清は行年七十七才と刻む。

*合田家と田嶋家の墓所は昭和十二年十二月に青山共葬墓地(青山霊園)より改葬(改葬者:合田家は照子、弘一室の光子、田嶋家は鍋吉・久子・百合子・治子・應親)された。

*義父の合田錦園(ごうだ きんえん)は国学者・儒家。富士谷成章に師事。皆川淇園に儒学を学ぶ。伏見宮貞敬親王の諸大夫をつとめた。名は昌蔵、通称は治部。墓石には名は刻まれていない。

*清の息子の合田弘一(1895-1963.1.2 同墓)は国際園芸社長。1958.7.13(S33)全日本蘭協会創立に参画し、翌年発刊した広報誌にて「洋蘭栽培ABC」の連載開始した。主な著書に『種子から蒔く 草花の作り方』、『四季ばらの作り方』、『花づくり十二ヶ月』、『菊づくり』、『花づくり』、『バラづくり』、『わが家の花づくり』などがある。なお、清の孫で弘一の長男の合田弘之は園芸種苗店を営み、日本洋蘭農業協同組合長を務めた洋ランの専門家。

*版画家となる川上澄生は弘一との縁で青山学院在学中の時に合田家の工房に足を運び実際の版画制作に立ち会うことで、木口木版の興味と関心を得るきっかけとなったという。


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