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ほりうち そうへい

堀内宗平

ほりうち そうへい

1878.9.10(明治11)〜 1943.6.13(昭和18)

明治・大正・昭和期の海軍軍人(大佐)、実業家(鉄道)

埋葬場所: 12区 1種 37側

 山梨県東八代群黒駒村(笛吹市)出身。農業を営む堀内藤右衛門の三男として生まれる。長兄は富士急行グループ創業者の堀内良平。弟に南米に移民して南米太郎の名で著名な堀内伝重がいる。
 1892年(M25)母を早くに亡くしたので、兄の良平に連れられ上京。1898 海軍兵学校(第29期)として入る。1904 日露戦争で東郷平八郎(7-特-1-1)司令長官麾下の連合艦隊第六艦隊に所属、旅順港口閉塞作戦に水雷艇付として参加、武勲をたて功五級金鵄勲章を下賜さる。
 '14(T3)第一次世界大戦で勃発した日独戦役に従軍。第13駆遂隊司令としてシンガポール方面に出動、英国海軍との協同作戦において赫々たる武勲をあげ、その功績により、'20(T9)英国皇帝より『ブリティッシュエンパイヤ勲四等勲章』を受章。
 '21.12 軍艦勝力艦長に補され、南洋郡島委任統治領警備の任務に付く。'23 日・英・米、海軍軍縮会議決議の煽りを受け、27年間の海軍生活を終え、予備役となる。
 その後、'22 故郷の山梨に戻り、富士身延鉄道に入り実業界に転じた。兄の良平は、1912 創立した富士身延鉄道で専務取締役を務め、富士身延鉄道の社長は宗平の結婚式の仲人をつとめた小野金六。'23 小野金六は亡くなり、兄の良平が社長に就任、宗平は支配人として支える。
 また兄の良平はこの頃より、富士山麓の開発と富士山麓電気鉄道の開業にまい進することになり、宗平も大月駅から富士吉田駅 間の建設や富士五湖地区発展に寄与した。
 富士身延鉄道は国鉄富士駅より身延駅間の全線を蒸気動力、いわゆる蒸気機関車を走らせていたが、時代は電化に変わりつつあり、すなわち電車に切り替える計画をしていた。'27(S2)身延から甲府間の事業免許を得られたのを機に既設区間を直流1500ボルトにより電化し、延長区間も電化して建設することとした。これらの工事は、'27〜'28 にかけて行なわれた。18両の半鋼製電車が新製される。これは日立製作所製造の純国産電気機関車をはじめ、すべて純国産品を採用購入し、日本国産技術の向上発展に心を配った。従来から使用されていた木製客車を電車用の付随車としても使用した。
 富士身延鉄道は住民の少ない険しい地形に建設されたため運賃収入が伸び悩み、電化による建設費もかさんだため、高額な運賃を設定せざるを得ず、経営も厳しい状況であった。末期には運賃が日本一高いといわれるほどにもなり、そのため沿線住民から、高額運賃を理由として国有化運動が起こる。結果、鉄道王の異名を持つ山梨出身の根津嘉一郎(15-1-2-10)が兄の良平から社長を引き継ぐ。'38.10.1 鉄道省に借上げられ、'41.1 時局による輸送力増強のための十分な改良の必要から買収案が決議され、同.5.1 正式に買収・国有化された(現在のJR身延線)。これらを見届けて、宗平は没す。正7位 従6位。享年66歳。

<塩田道夫 『富士を拓く』堀内良平伝刊行委員会>
<墓誌碑より>


墓所

*墓石は和型「堀内家奥津城」、裏面は「昭和六十三年六月吉日 堀内宗忠 建之」。右面が墓誌となっており、堀内宗平から刻みが始まり父と刻み、堀内房子は母、宗孝は次男、明子は三女、宗忠は三男、城子は妻と刻む。墓所内墓誌碑は「昭和六十三年六月吉日 堀内宗忠 建之」。「明治、大正、昭和、三代にわたり堀内家の家系を継ぎ、家風の振興に努めた親族の遺影を偲び、各位の霊を慰め御冥福を祈りつつ、ここに墓誌を認む」と刻む。

*墓所内には墓誌が建ち、略歴の他、「元帥海軍大将 東郷平八郎 閣下より次の書を賜る『有謄勇気力 発亜春 為堀内君 東郷平八郎 書』」も刻む。墓誌全面は堀内宗平の略歴が刻むが、裏面は宗平の妻の房子、宗平と房子の次男で戦死した堀内宗孝(海軍大尉)の略歴が刻まれている。建立者は堀内宗忠である。なお妻の堀内房子は子爵の内藤政長の次女。

*兄の堀内良平(1870-1944)は衆議院議員を務めた人物であり、宗平と共に主に山梨県の鉄道事業を手がけた。良平の子は堀内一雄であり衆議院議員、その子の堀内光雄も衆議院議員を務めた。なお、堀内光雄は富士山麓電気鉄道(通称・麓鉄)を富士急行(通称・富士急)に躍進させた社長でもあり、富士急ハイランドや日本ランドなどの観光事業に尽力し、現代の富士急グループを形成した人物である。堀内光雄の妻の英子の父は、陸軍大佐・政治家の辻政信である。光雄の子は富士急行社長の堀内光一郎。


堀内房子
1883(明治16)〜 1945.2.27(昭和20)
堀内宗平の妻
 磐城湯長藩主の内藤政養子爵の次女。福島県湯長出身。福島県師範学校を卒業。1908(M41)5月、山梨県の生んだ大実業家の小野金六翁の媒酌により、当時31歳の海軍大尉の堀内宗平と、25歳にて結婚。良き伴侶として生涯を過ごした。


堀内宗孝
1918.8.6(大正7)〜 1945.5.2(昭和20)
海軍大尉
 堀内宗平・房子の次男。東京出身。早稲田大学卒業後、中島飛行機製作所に就職するも、第二次世界大戦が勃発し、父の意志を継ぎ、1943(S18)海軍予備学生を志願入隊。 翌年、比島ミンダナオ島ダバオに着任。三十二特別根據地海軍陸戦隊第二大陸渋谷中隊最前線小隊長として奮戦。1945.5.2(S20)敵の武装トラックの陣に抜刀の奇襲を行い戦死した。 南西方面艦隊司令長官賞詞を賜って、その武勲を讃え、陸軍最高指揮官亦幕僚を派遣し偉功を激賞した。正七位勲六等。書は第三十二特別根據地隊司令官で海軍少将の土井直治。



第242回 富士身延鉄道 富士山麓電気鉄道 富士急 開業に尽力
堀内宗平 お墓ツアー 兄は富士急行グループ創業者の堀内良平


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