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ほんだ やすしげ

本多康穣

ほんだ やすしげ

1836.1.23(天保6.12.6)〜 1912.2.28(明治45)

近江膳所藩主、子爵

埋葬場所: 12区 1種 3側 1番

 膳所(滋賀県大津市)出身。近江膳所藩第12代藩主の本多康禎の六男。 1855(安政2)兄で第13代藩主である本多康融の養子となり、翌年、兄の隠居により家督を相続し、第14代藩主となった。下総守・主膳正ともいう。
 藩主となった時期は、京都御所警固を命じられ、その後も、和宮警護、孝明天皇の石清水八幡宮行幸の警護などを務めた。 1864(元治1)禁門の変では御所の警備を務める。1865(慶応1)第二次長州征伐のとき、膳所城が将軍の宿泊所にあてられるが、藩士のなかに長州藩と相通じる尊王攘夷派が多かったので、大津で仮泊されてしまう。 そのため11名の藩士が断罪された。戊辰戦争では新政府に恭順。桑名藩討伐の先鋒を務め、越後にも出兵した。
 1869(M2)版籍奉還により膳所藩知事に任ぜられる。1871廃藩置県により藩知事を免職。 1884.7.8(M17)華族令により6万石の武家として子爵の爵位を授爵。1902神道管長に任ぜられた。従2位。脳溢血で逝去。享年76歳。
 正室は酒井忠発の娘の張子(同墓)。子に恵まれなかったため、伊勢神戸藩第6代藩主の本多忠寛の次男の本多康直(9-2-16-1)と、伊予宇和島藩9代藩主の伊達宗徳の次男の本多康虎(同墓)を養子とした。 康直は官僚の道を歩み分家し、家督・子爵を継いだのは康虎である。

<幕末維新江戸東京史跡事典>
<講談社日本人名大辞典など>


碑

*本多康穣は染井霊園に葬られたが、1935.3.3(S10)多磨霊園に改葬された。


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