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はしもと さちこ

橋本祐子

はしもと さちこ

1909(明治42)〜 1995.10.6(平成7)

戦後の青少年教育家

埋葬場所: 12区 1種 14側

 中国上海出身。日清汽船重役を務めていた父の赴任先で誕生。幼稚園を入園を機に帰国。大学まで一貫して日本女子大学に通い、中学時代は東京府が主催する懸賞論文で一等となり、日本女子大学英文科を主席で卒業した。
 1931(S6)11歳年上の外交官の橋本昂蔵(同墓)と結婚。夫の赴任地に随行し、'45終戦を北京で迎え、日本に引き揚げる。住居が洋館であったことから、進駐軍が接収しにきた際、流暢な英語でダメだと追い返した逸話がある。これがきっかけで、'47進駐軍に英語の実力を買われ、アメリカの赤十字社の人を紹介された。それが日本赤十字社に入社する動機となった。39歳の遅いスタートである。
 日赤でまず行ったことは衛生と栄養に関する啓発である。それがひと段落すると、青少年課長となり、国際理解の推進、国際交流の指導者づくり、ボランティア、青少年教育に心血を注いだ。数々の国際セミナーやフォーラムの他、'57全国から高校生の各県代表を集めた講習会である「青少年赤十字スタディーセンター」を行い、青少年の教育に並々ならぬ手腕を発揮した。そこで最も青年たちに唱えていたことは、3つの目標「健康・安全」「奉仕」「国際理解・親善」である。
 '61赤十字発足100周年の際のゲストスピーカーが駐日アメリカ大使をつとめたエドウィン・O・ライシャワーであった。彼の弟がR・ライシャワー(外-1-10)である。
 '64東京パラリンピックで語学奉仕団を結成。これは日赤傘下の自主運営ボランティア団体であり、通訳ボランティアとして組織された。日赤で翻訳をしていた学生6人が友人に声をかけ、14ヵ国語を話す学生ら200人が結集。大会では22か国の車いす選手計375人を無償で介助した。事前に語学の勉強を重ねたほか、病院などを訪ねて障がいに関する研修を行った。この奉仕団の活動から「ボランティア」が日本に定着し、橋本は定着させた人物としても有名となる。他にも青少年の障がい者が技能を競い合うアビリンピックなどでも活動。
 '68総理府の主催で東南アジア七ヵ国を回る「青年の船」という国際交流の企画に於いて女子の参加に貢献し副団長となる。当初総理府は不純異性交遊を恐れ船には女は乗せないと言っていたが、これを橋本は時の総理大臣の佐藤栄作首相に猛烈に噛み付き、女性の参加を認めさせ自らも乗船することになったという。
 '70汎太平洋青少年赤十字セミナーを日本で開催。'72これらの功績が讃えられ、アジア初、女性として世界で初めて国際赤十字最高の栄誉である「アンリ・デュナン・メダル」を受章。また世界各国より惜しみない賛辞が贈られた。'74アンリー・デュナン教育研究所を設立。
 橋本夫妻には子供はいなかったが、「自分の子供はいないけど、赤十字にたくさん子供がいる。その子たちにみとってもらうのよ」と晩年語っていたという。亡くなる十年ほど前より痴呆を患い老人ホームで暮らす。心不全のため逝去。享年86歳。

<鼎談 元日本赤十字社青少年課長 故橋本祐子先生の語録をめぐって>
<「墓碑銘」週刊新潮 H7>
<東京新聞 2015/1/3,5,6,7>
<中村英信様より情報提供>


墓所

*墓石は和型「橋本家之墓」。左側に橋本祐子の墓誌碑が建つ。

*墓誌碑は1995年11月友人弟子一同の総意より「アンリーデュナン」教育研究所が建立した。 ちなみにアンリーデュナンとは赤十字を創設した人物の名である。墓誌碑の最後にはこう刻む。

  「明日は今日つくられる」

  「できるかできないかではなく、したいかしたくないかである」


【橋本祐子語録】

“奉仕は、人生の家賃”
 人は人に支えられて生きている。関わったすべての人に恩返すことはできない分、自分が住んでいる社会に還元するのだ。これがボランティアの本質である。

“奉仕とは、余計に持っているものをあげることではない。分け合うことだ”
 「奉仕って何ですか。余計に持っているものをあげることですか。違うでしょ。分け合うことではないのですか」。橋本の根底には、中国から日本に引き揚げ中の汽車で、屋根もなく寒い中、乗り合わせた数十人が持っていた小さな布を集め、縫い合わせて屋根代わりにして身を寄せ合って風雨をしのいだ経験がある。

“できるかできないかではない。したいかしたくないかである”
 橋本祐子は指導する際に決して「やりなさい」とは言わない。強制されたら奉仕ではないからだ。
 *墓碑には「したいかしたくないか」と刻むが、多くの書物では「やるかやらないか」と記載されることもあるが、同じ意味として解釈されている。

“明日は今日つくられる”“苦しみのない喜びは三流品”
 挑戦する。やってみるというのは素晴らしいこと。へたでも何でもいい。今日つくったその一歩が明日(未来)をつくる。またその一歩の苦しみを乗り越えるから本物の喜びが生まれる。
 *墓誌碑は「明日」であるが、書物によって「未来は今日つくられる」と表記しているものも多い。「明日」も「未来」も同じ意味として解釈されている。

“私の世界地図は、人でできている”
 世界中に赤十字の知人を持ったことで、私の遺産は人であり、次世代につなげば輪は広がるという意味。

“語学は平和の武器”
 橋本は平和の実現には言葉が大事だと説いていた。人と人を結び、理解し合うためのツールであると。


※私的な話であるが、神奈川県立高校の英語教諭・校長などを歴任し定年された中村英信先生と知り合いである。
 中村先生は第三回スタディーセンターに神奈川県代表として参加して以来、語学奉仕団や青少年赤十字指導者を務め、現在は青少年赤十字賛助奉仕団理事である。もちろん橋本祐子先生の弟子の一人である。
中村先生がまだ青年だった時の逸話である。日本人の講習会に参加していた日本語がわからない外国人が困りながら視聴している。橋本祐子先生は中村青年にこう言いました。「あなたはあの外国の方に何ができますか」と。当時はまだ通訳ができるまでの力と自信がなかった中村青年ですが、その一言でチャレンジしようと思ったそうです。まさに「したいかしたくないか」の逸話である。
 中村先生は私にこういうことも教えてくれました。「ボランティアは自分の意志ではじまるものなのですよ。よってボランティアとは家庭から始まるのです」。



第110回 日本にボランティア精神を根付かせた人 日赤 橋本祐子 お墓ツアー
できるかできないかではなく したいかしたくないかである


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