メイン » » » ライシャワー,ロバート カール
Reischauer, Robert Karl

ライシャワー,ロバート カール

Reischauer, Robert Karl

1907.5.14(明治40)〜 1937.8.14(昭和12)

昭和期の教育家、日本文化研究家

埋葬場所: 外人墓地区 1種 10側

 東京品川出身。アメリカ長老派教会在日宣教師のオーガスト・カール・ライシャワー(August Karl Reischauer:1879.9.4-1971.7.10)、ヘレンの長男として明治学院構内の宣教師館で生れる。弟は駐日アメリカ大使をつとめたエドウィン・O・ライシャワー(Edwin Oldfather Reischauer:1910.10.15‐1990.9.1)。
 1912(M45)父がシカゴ大学やニューヨーク大学で研究のため、一家は一時アメリカに帰国。すぐに一家は日本に戻り、'14 妹のフェリシア誕生。小学校と中学校をアメリカ人向けナショナルスクールである築地のアメリカンスクール・イン・ジャパン (ASIJ) で学ぶ。日本生まれから「ボーン・イン・ジャパン (BIJ)」と呼ばれるが、後に自らを「たまたま日本に生まれたアメリカ人」と語る。'27(S2)一家はアメリカに戻り、ハーバード大学などで学ぶ。弟のエドウィンは「大学内で東アジア研究に興味を抱いていた大学院生は二人しかいなかった。私と兄だ」と回想している。
 その後、一家は日本に戻り、父は東京女子大学を設立し代表、明治学院大学教授、女子学院院長を務め、母のヘレンは日本聾話学校初代校長を務めた。1932(S7)父が代表を務めている東京女子大学で二年間、西洋史を教えた。
 '34 ロバートは単身アメリカに帰り、プリンストン大学教授となる、日本文化研究や日本古代史研究を行う。'37.12 同大学から見学団を引率して中国に渡る。上海に滞在中、北支事変の中国国民党軍機の誤爆によりカセイ・ホテルで不慮の死を遂げた。享年30歳。
 '37 遺稿 "Early Japanese History" として Princeton University Press から刊行され、日本古代の氏族時代の研究として斯界において高く評価された。

<来日西洋人名事典・増補改訂普及版>
<世界大百科事典など>


Reischauer, Robert Karl

*十字架の墓石の台座に「ROBERT KARL REISCHAUER」とあり、生まれは東京、死去地が上海と生没年月日とともに英語で刻む。

*弟のエドウィン・O・ライシャワーの前妻はアドリエンで、三人の子どもを残して急逝(1955)。翌年、後妻にアメリカンスクールの後輩の松方ハル(1915.8.6-1998.9.23:明治の元勲の松方正義の孫)と再婚。エドウィンは襲撃事件を受けた際の輸血以降に持病となった肝炎が悪化し、延命拒否をして亡くなったが、その際に、遺灰は「日本とアメリカの懸け橋になりたい」との遺言を残したので太平洋に散骨された。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・ら行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。