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はせがわ まんじ

長谷川萬治

はせがわ まんじ

1891(明治24)〜 1976.12.6(昭和51)

大正・昭和期の木材商、銘木収集家、
3年連続長者番付日本一

埋葬場所: 11区 1種 14側

 東京出身。1922(T11)東京の木場に木材問屋の長谷川萬治商店を創業し、社長(後、会長)となる。'26三井物産(株)木材部の総代理店になる。 '41(S16)製材業を開始し広葉樹の販売に注力した。'52不動産管理、賃貸事業も開始した。
 長谷川が生前よく口にした言葉として「愛によって切る」がある。盲目の愛によって木を繁茂するに任せれば、結局それは密生してお互いに相殺しあってしまう。 そこで山林を守るためには冷静な目で木を切る必要がある。そして成木は、切られ建築材、家具材として使われることによって、新たに千年の命を得る。 「木を見ることは、同時に森を見ること」という教えは、会社の家訓として社員に伝えられている。この言葉からも長谷川は木を見、森を見ることができる“木の傑人”として語り継がれている。
 '48頃より、貴重な銘木が次第に入手困難になっていくことを惜しみ、多大の苦心をはらいつつ30年にわたって銘木の収集をした。 集めた銘木を長く保存し、広く公開して銘木知識の向上や発展に役立てる事を常々考えおり、没後、遺志を受け継いだ長谷川剛(同墓)が、'77財団法人 日本住宅・木材技術センター 銘木保管庫の発足に伴い、銘木583点を寄贈した。
 '73〜'75(S48〜S50)年度の3年連続で長者番付(高額納税者ランキング)ナンバーワン(37億6,432万円)となった。 昭和40年代後半は田中内閣の日本列島改造論の経済政策により、長者番付の上位は土地長者で占められた。 '69(S44)年度頃から、不動産業者やゴルフ場経営者が登場し、'71と'72は上位百人中九十人以上がが土地の譲渡所得者で占められるようになった。 長谷川は当時、深川の木場に土地を所有しており、移転に伴って、東京都に土地を大量に売った。 当時の東京では一坪が数千万円という地価が登場するなど高騰しており、加えて、譲渡所得税が安いこともあり、高額所得者第一位に躍り出たのである。 なお、長谷川が高額所得者一位となった昭和五十年度は百位中九十四人が土地長者であった。 これを受けて、マスコミが非常な高額所得が発生したにもかかわらず譲渡所得税が安いことは不公平であると盛んに報道したこともあり、国会も土地譲渡に対する課税強化を行い、'76以降は大きな土地売買が影をひそめ、土地長者のランキングも影を潜めるようになった。
 長者番付一位の最終年に長谷川は没す。享年85歳。蛇足であるが、当時の相続税支払い日本一にもなっている。

<人物往来Who's Who第四号>
<「高額所得者ランキングに見る名門の推移」斎藤憲彦>
<銘木保管庫案内版など>


墓所  墓所

*東京都江東区新砂にある財団法人日本住宅・木材技術センター試験研究所の敷地内に銘木標本館がある。そこに萬治像もあり、この像は日展審査員で文化功労者の高橋剛の作品である。

*正面和型「長谷川家之墓」。裏面は「昭和十八年三月 長谷川萬治 建之」と刻む。墓石左側に墓誌があり、戒名は萬徳院殿治譽浄道長壽大居士。墓誌の左側に灯篭や「長谷川家」と刻む寝石。その左に「先祖代々墓」と刻む墓がある。裏面には「昭和九年九月十六日建之 長谷川萬治」と刻み、右面が墓誌となっており、萬治の父母らが刻む。

※最初「先祖代々墓」を建之し、九年後に「長谷川家之墓」を建てたと推測できる。墓誌は長谷川萬治を筆頭として、一行空けて先祖代々の刻みが続いている。


【銘木(めいぼく)】
 銘木とは、室内の内装に使用される木材のことである。部屋の中で目に見える木材、それが杉、松、桧、ケヤキなど樹種の如何を問わず、自然が作り出す美しさを持ったものであれば、それは全て銘木となる。 保管庫の案内版には、銘木に関して下記のように記されている。「材面の鑑賞価値が極めて高いもの/材の形状が非常に大きいもの/材の形状が極めて希なるもの/材質が特に優れているもの/入手が困難な天然木/たぐい希な高齢樹/たぐい希な樹種/由緒ある木」。


【長者番付の歴史】
 1889.2.11(M22)大日本帝国憲法の発布と同時に公布された「衆議院議員選挙法」の選挙権および被選挙権には、所得税の支払い期日や支払い額が定められており、つまりは高額所得者でなければ選挙に立候補することも、一票を投じることもできなかった。
 高額所得者(納税者)の公示制度は、1950(S25)ショウブ勧告に基づいて設けられ、正式には「申告書の公示」(所得税法二百三十三条)という。公示制度では収入額を公示していたが、1983年度からは納税額を公示するようになった。
 昭和三十年代は、昭和35年度を除く、昭和32年度から38年度まで松下電器工業社長の松下幸之助がトップとなった。 なお、35年度はブリジストンの石橋正二郎(9-1-7-2)である。この時代は高度経済成長政策によりインフレが進行していたこともあり、すべて大会社の社長が上位を独占していた。 上位20位以内に炭鉱の個人経営者が7人登場するのは、当時の産業構造の特徴が伺える。付け加えであるが、松下幸之助は長者番付が世に出てから没するまでのランキングの歴史でベストテンに登場しなかったのは、わずか4回だけであるという。 昭和四十年代前半まで大会社社長の上位独占が目立ち、上位常連者は、前記した松下、石橋の他に、上原正吉(大正製薬)、鹿島守之助(鹿島建設)、大塚武三郎(大塚製薬)、熊谷太三郎(熊谷組)、石橋正二郎の息子の石橋幹一郎(9-1-7-2)(ブルジストン)などである。
 昭和四十年代後半になると、先にも書いたが、田中内閣の日本列島改造論に乗っかった土地譲渡者はランキングを占め、土地長者が百人中八割、九割を占めることとなる。 昭和五十一年に土地譲渡に対する課税強化により土地長者が影を潜め、再び大会社社長が目立つようになる。一方、医師も上位に顔を出すようになった。 しかし、医師の優遇税制にもメスが入り、昭和五十五年度には分離法人化する医師が相次ぎ、ほとんど上位百人から姿を消した。 昭和五十六年度一位の田村半十郎は先代が亡くなり、その相続税約60億円を支払うため、土地を売却してトップとなった。 昭和五十七年度より社会問題化したサラ金経営者の上位進出が目立つようになる。
 昭和五十八年度から所得公示から税額公示に変わり、様相が一変する。譲渡税に比べ税率の高い給与所得、事業所得者の上位進出が目立つようになる。 そのため、公示対象者が五十七年度の約五十二万人から五十八年度の約六万六千人に激減することとなった。 昭和五十九年度から三年連続ベストテン入りに作家の赤川次郎が果たしたのも特筆される。面白いことに、ベストテン入りした政治家や旧華族はほとんどいない。 大会社社長と兼務した政治家でのランク入りは4名であり、政治家のみとしてはゼロ。旧華族や旧財閥出身者は2名のみである。
 平成に入るまでのいわゆるバブル期には、不動産関連者の上位が増える。バブル崩壊後は、消費者金融会社、IT会社、健康食品会社、タクシー会社、ゲーム会社、パチンコ会社が上位に出てくるあたりが時代を反映いている。 平成二十年度は一位山内博(任天堂)、二位森章(森トラスト)、三位毒島邦雄(SANKYO)、四位佐治信忠(サントリー)、五位孫正義(ソフトバンク)であった。

<日本の名門1000家−高額所得者など>


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