福岡県久留米市出身。石橋徳次郎、まつ の二男として生まれる。家業は着物などを縫う仕立業「志まや」。久留米商業学校卒業後、進学を希望したが、父が心臓病のため引退をしたため、父の希望で、兄の重太郎(後に2代目徳次郎)と家業を継ぐことになる。しかしすぐに兄が一年間志願兵として軍隊に入隊したため、正二郎が一人で切り盛りすることになった。
仕立業は職人的な技能に頼り、種々雑多な品物の注文に応じて作る非効率的な仕事であった。そこで仕立物業に見切りをつけ、業務の一部としていた足袋製造に絞り、それを専業とすることを単独で決断し実行。また無休かつ無給の徒弟制を辞め、徒弟を職人として給料払いにし勤務時間を決める改革を行う。これらは全て事後報告で父と兄に伝えたとされる。
兄が除隊し戻った後は二人で協力をして足袋の生産量を増やしていく。'11 自動車を購入し、宣伝カーとして活用するなど画期的な広告手法を実践。'14(T3)商標を「志まや足袋」から波にアサヒマークの「アサヒ足袋」へ変更。またサイズごとに価格が定まっていなかった足袋の小売価格を20銭均一販売にした。この頃は第一次世界大戦が起こり物価高騰したが、事前に予見し原料を大量に仕入れていたため、事業が拡大でき、'16 大量生産をするために新工場を建設しミシンや裁断機を採用して機械化を図る。
'18.6 個人商店組織を改め「日本足袋株式会社」を設立。兄の2代目徳次郎を社長として、自身は専務取締役に就任。'21 張り付け式ゴム底足袋(地下足袋)を発明し、'23 特許を取得し地下足袋製造販売を開始、爆発的なヒット商品となる。また運動靴製造販売も開始した。'28(S3)輸出用のゴム靴専用工場をつくり、'29 米国、欧州、アフリカに靴輸出も開始。このようにゴム業界のトップメーカーとして石橋財閥を築き上げていった。この間、'28 九州医学専門学校(久留米大学)創立に携わった。
'30 日本足袋株式会社社長に就任。前年より自動車のタイヤ製造に将来性を感じ、タイヤ製造装置をアメリカへ発注。タイヤの試作を開始しており、日本で初めて自動車用タイヤを完成させた。これにより、日本足袋株式会社社長を退き兄に任せ、日本足袋タイヤ部を独立させる形で、'31.3.1(S6) 「ブリッヂストンタイヤ株式会社」を設立して取締役社長に就任した。タイヤ製造だけでなく、タイヤ販売に品質責任保証制を採用した。なお社名の由来は、石橋の石(ストーン)と橋(ブリッヂ)を逆さから読んだもの。
'37 東京へ一家で転居。'42 太平洋戦争にともない、ブリヂストンの社名を「日本タイヤ株式会社」に変更。終戦により海外工場など海外資産の一切を失う(終戦時海外生産会社:満州合成ゴム工業、満州ゴム化学工業、青島ゴム工業、 台湾ゴム、朝鮮タイヤ工業など)。'47 本社を創業の地の久留米から東京に移し、心機一転し、同年より輸出を再開。
'51 社名を「ブリヂストンタイヤ株式会社」に復活させる。'63 ブリヂストン社長を長男の石橋幹一郎(同墓)に譲り、会長に就任。'73 相談役。日経連・経団連常任理事なども務めた。
'53 妻の昌子と共に欧州視察をした際にオランダで大洪水に遭遇。ユニセフ救援物資の活動を目の当たりにし感動。帰国後、昌子と共に日本でのユニセフの普及発展に動くも、同年末に昌子が急逝。同じ志で活動していた富久と再婚。富久は昌子の志を引き継ぎ日本でのユニセフの中心として普及発展に寄与。'55 石橋財団をつくり、同年「日本ユニセフ協会」と発展させ支援。同年ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館建設資金を外務省に寄付。また東西の美術品を収集し、東京にブリヂストン美術館、久留米市に石橋美術館を開設するなど文化事業を助成した。勲二等瑞宝章を賜り、'60 フランス政府からレジオン・ドヌール勲章、'61 イタリア政府よりメリト勲章が贈られる。加えて久留米市名誉市民に推された。'69 近代美術館評議員を務めていたこともあり、移転計画のあった東京国立近代美術館を「個人として近代美術館を新築してこれを国に寄贈したい」と伝え、千代田区北の丸公園に谷口吉郎の設計により新築された。
晩年はパーキンソン病となり東京の日比谷病院にて逝去。享年87歳。従3位 勲1等瑞宝章追贈。葬儀は社葬として青山葬儀場で行われた。2006(H18)米国自動車殿堂入りしている。
<墓石裏略歴> <石橋正二郎 - ブリヂストン物語> <近代日本の創業者100人など>
*墓所内は芝生に覆われ3基建つ。正面は「石橋正二郎 墓 / 昌子 墓」、左側に「石橋富久 墓」が並んで建つ。昌子は正二郎の前妻で、富久は後妻。墓所左側に「石橋幹一郎 墓 / 朗子 墓」が建つ。それぞれの墓石の裏面は各々の略歴が刻む。墓所右側に墓誌が建つ。墓誌には正二郎の前妻の昌子から刻みが始まり、次に正二郎、後妻の富久(ふく)、幹一郎の妻の朗子(さえこ)、幹一郎と続く。石橋正二郎の戒名は大成院殿正統常鑑大居士。昌子は慈昌院正室慧鏡大姉。富久は慈光院恵照彩冨大姉。石橋幹一郎の戒名は大眞院殿慈徳道幹大居士。朗子は陽光院彩室朗照大姉。墓誌の裏面は「一九九五十一月建之」と刻む。
*石橋家の菩提寺は福岡県久留米市の千榮寺(せんえいじ)であり、父や兄が眠る墓はそちらに建っている。正二郎も分骨されている。その旨が正二郎の墓石の裏面に刻む。
*正二郎の前妻は石橋昌子は社会事業に心を注ぎ、久留米に母子寮を建設。また日本ユニセフ協会の設立に参画するも志半ばで亡くなる。その意志を引き継いだのが正二郎の後妻となる富久(ふく:1904.11.4-1994.12.27)。東京出身。清水瀧次郎、トセの長女。昌子が亡くなった次の年、'54.3.20 石橋正二郎と結婚。この時、正二郎は65歳、富久は50歳。ユニセフの中心となり日本での普及発展に尽力した。
*正二郎と昌子の間には2男4女を儲ける(人名事典では1男3女としているのが多いが、墓石裏面より2男4女を儲けた刻みがあるのでそちらを優先する)。長男の幹一郎がブリヂストンを継ぎ、娘の安子は鳩山一郎の長男で政治家の鳩山威一郎に嫁ぎ、首相を務めた鳩山由紀夫、政治家の鳩山邦夫の母となる。鳩山邦夫の妻はモデルの高見エミリー。高見エミリーの妹の理沙は石橋幹一郎と朗子の長男の石橋寛に嫁いでいる。二女の典子はブリヂストンタイヤ副社長となる成毛収一、三女の啓子はブリヂストン液化ガス常務となる郷裕弘、四女の多磨子はブリヂストン専務となる石井公一郎に嫁いだ。啓子の息子の郷和道はレーシングチームのマネージャーとして著名。
*石橋幹一郎の妻は朗子(さえこ:1927.4.18-1994.12.27)。三井合名会社理事長の男爵の団琢磨の孫、 プリンス自動車社長の団伊能の娘、作曲家の団伊玖磨の妹である。東京出身。'45.3.21 幹一郎と結婚。長男は石橋寛(1946-)でブリヂストン監査役や石橋財団理事長を務める。妻はモデルの高見エミリーの妹の理沙。なお、高見エミリーは政治家の鳩山邦夫に嫁いでおり、鳩山邦夫の母の安子は石橋正二郎の娘(幹一郎の妹)。長女の美紀子は本田技研の宮原弘光に嫁ぐ(宮原家は男爵の家系)。二女の知子は清水建設の塩原祐吾(三共創立者の塩原又策の孫)に嫁ぐ。
*石橋正二郎の兄で2代目 石橋徳次郎(1886.2.23-1958.8.19:前名は重太郎)は日本足袋株式会社社長として活躍。'37 社名を日本ゴム株式会社に改称。アサヒ靴は昭和時代の長期にわたり業界トップメーカーの地位を確立した。2代目没後は、2代目の息子の3代目 石橋徳次郎(前名は義雄)が社長を継ぎ、業績を伸ばし、'88(S63)株式会社アサヒコーポレーションに改称。しかし、'98.4.10(H10)経営悪化により福岡地裁に対し会社更生法の手続き開始申請を行ない事実上倒産した。負債総額は1300億円あまりの大型倒産であった。2017 会社更生法における更生計画が終了したため、アサヒシューズ株式会社に社名を変更。
第206回 ブリヂストンBRIDGESTONE 地下足袋からタイヤの王様 石橋正二郎 お墓ツアー
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