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いしばし まさこ

石橋昌子

いしばし まさこ

1896.9.22(明治29)〜 1953.11.10(昭和28)

大正・昭和期の社会事業家

埋葬場所: 9区 1種 7側 2番

 福岡市博多出身。太田惣三郎、スエの長女として生まれる。1917.5.5(T6) 石橋正二郎(同墓)と結婚。'20 幹一郎、'22 安子、'23 典子、'25 文二、'27 啓子、'30 多摩子、2男4女を産んだ。
 夫がゴム業界でトップシェアを誇るまでの過程において、昌子の内助の功はなはだ大であった。'37 東京へ一家は転居。夫の業を内助すると共に、子供たちの養育に心を砕いたが、その才は短歌・俳句・随筆をよくし、かつ茶道・音曲の道にも達していた。
 晩年は社会事業に心を注ぎ、久留米に母子寮を建設した。そんな折、'53 夫の正二郎と欧米十カ国への視察旅行に同行。ヨーロッパ視察中に、北海沿岸を襲った嵐でオランダが未曾有の大洪水に見舞われたところに遭遇。そのオランダで「ユニセフ救援物資」が各国から運び込まれるのを目の当たりにし、「相互扶助の国際愛」に正二郎と共にいたく感動。帰国後、数人の女性たちと共にユニセフの駐日代表のマルゲリータ・ストレーラー女史をサポートする活動を行うようになる。これが、'55 「日本ユニセフ協会」として財団化されるまでに発展していくことになる。しかし、昌子は視察旅行から帰国し、ユニセフに対する活動を始めた途上に急逝。享年57歳。
 ユニセフの支援活動を共に行っていた清水富久(1904.11.4-1994.12.27:同墓)が、昌子の志を引き継ぎ、ユニセフの支援活動の中心となり活動。昌子没翌年に富久は正二郎の後妻となり、石橋富久として活動していくことになる。
 拠点を東京だけに留めたくないと、地元に根付いたユニセフ支援活動を日本中に広める目的として、石橋正二郎の郷里の久留米市に「ユニセフ友の会」第1号を設立した。活動の初期は日本国内の孤児の支援も含まれていた。これら女性たちのボランティア活動の輪が広がり、'55 正二郎が石橋財団をつくり、日本ユニセフ協会へと発展させた。

<墓石裏略歴>
<久留米人物史>
<ユニセフに寄せる心が地元に根付いた>


墓所 碑

*墓所内は芝生に覆われ3基建つ。正面は「石橋正二郎 墓 / 昌子 墓」、左側に「石橋富久 墓」が並んで建つ。昌子は正二郎の前妻で、富久は後妻。墓所左側に「石橋幹一郎 墓 / 朗子 墓」が建つ。それぞれの墓石の裏面は各々の略歴が刻む。墓所右側に墓誌が建つ。墓誌には正二郎の前妻の昌子から刻みが始まり、次に正二郎、後妻の富久(ふく)、幹一郎の妻の朗子(さえこ)、幹一郎と続く。石橋正二郎の戒名は大成院殿正統常鑑大居士。昌子は慈昌院正室慧鏡大姉。富久は慈光院恵照彩冨大姉。石橋幹一郎の戒名は大眞院殿慈徳道幹大居士。朗子は陽光院彩室朗照大姉。墓誌の裏面は「一九九五十一月建之」と刻む。

*正二郎と昌子の間には2男4女を儲ける(人名事典では1男3女としているのが多いが、墓石裏面より2男4女を儲けた刻みがあるのでそちらを優先する)。長男の幹一郎がブリヂストンを継ぎ、娘の安子は鳩山一郎の長男で政治家の鳩山威一郎に嫁ぎ、首相を務めた鳩山由紀夫、政治家の鳩山邦夫の母となる。鳩山邦夫の妻はモデルの高見エミリー。高見エミリーの妹の理沙は石橋幹一郎と朗子の長男の石橋寛に嫁いでいる。二女の典子はブリヂストンタイヤ副社長となる成毛収一、三女の啓子はブリヂストン液化ガス常務となる郷裕弘、四女の多磨子はブリヂストン専務となる石井公一郎に嫁いだ。啓子の息子の郷和道はレーシングチームのマネージャーとして著名。

*石橋幹一郎の妻は朗子(さえこ:1927.4.18-1994.12.27)。三井合名会社理事長の男爵の団琢磨の孫、 プリンス自動車社長の団伊能の娘、作曲家の団伊玖磨の妹である。東京出身。'45.3.21 幹一郎と結婚。長男は石橋寛(1946-)でブリヂストン監査役や石橋財団理事長を務める。妻はモデルの高見エミリーの妹の理沙。なお、高見エミリーは政治家の鳩山邦夫に嫁いでおり、鳩山邦夫の母の安子は石橋正二郎の娘(幹一郎の妹)。長女の美紀子は本田技研の宮原弘光に嫁ぐ(宮原家は男爵の家系)。二女の知子は清水建設の塩原祐吾(三共創立者の塩原又策の孫)に嫁ぐ。


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