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はちじょう たかまさ

八條隆正

はちじょう たかまさ

1883.6.27(明治16)〜 1950.2.3(昭和25)

明治・大正・昭和期の子爵、大蔵官僚、政治家

埋葬場所: 14区 1種 2側

 本籍は京都府。明治天皇侍従として仕えた伯爵の油小路隆董の3男として生まれる。兄は伯爵の油小路隆元(1864-1908)、甥に伯爵の油小路隆成。叔父に実業家の阿部市三郎。油小路(あぶらのこうじ)家は藤原北家四条家の分家西大路家の庶流にあたる公家である。家格は羽林家。西大路隆政の二男の隆蔭を祖とする。室町時代末期に隆継の子の隆秀が早世したことにより江戸時代初期まで中絶していたが、広橋兼勝の次男の隆基により再興された。江戸時代の石高は150石。明治に入り、隆正の祖父の油小路隆晃が伯爵に叙せられた。
 公家・子爵・裁判官を務めていた八條隆吉の4女の遺子と結婚。遺子の父の隆吉没後、1884 隆吉の養子の八條隆緝が家督と子爵を継ぐが、1888 離籍した。そのため、同年より養子の八條隆邦が家督と子爵を継いだ。しかし、1896 隆邦が急死する。そこで、遺子と結婚することが決まっていた隆正が隆邦死後に隆邦の養子となり、姓を八條として家督と子爵を相続した。当時、隆正はまだ修学中の学生であった。
 1908(M41)京都帝国大学法科大学卒業。翌年、大蔵省に入省し税務監督局属 兼 大蔵属。税務監督局事務官、東京税務監督局経理部長などを歴任した。'15.7.15 依願免本官で退官。その後は、産業組合中央金庫理事長、日本銀行監事、住宅営団監事、内閣顧問、大蔵省顧問、帝国農会特別議員、国民貯蓄奨励委員会委員、学習院評議会会員、日本興業銀行監査役等を務めた。
 また貴族院議員(子爵議員)となり研究会に属す。在任期間(T4.7-S8.4, S12.4-S21.2)。貴族院議員として力を発揮していたが、'33.1.18(S8)二男の八条隆孟が赤化華族事件により検挙される。隆孟の意志もあり分家させる。隆孟は転向拒否をしたため起訴されたことで、同.4 自身も議員を辞職した。'34.1.16 裁判の結果、隆孟は懲役3年の実刑となる。昭和天皇の恩赦や隆孟を分家させ平民としていたことで父である隆正にお咎めはなかったが、隆孟が刑期を終え出獄するまで待ち、'37.4 貴族院議員に復帰した。正3位 勲2等。享年66歳。

<歴代閣僚と国会議員名鑑>
<平成新修旧華族家系大成>
<人事興信録など>


墓所 墓所

*墓所内には8基建つ。墓所正面左の墓石「従五位子爵八條隆吉 / 室 田鶴子 墓」、裏面「昭和十五年二月重建之」。右面「自従一位 権代納言 坊城俊克 卿 女實為 従三位 左近衛権 将隆聲 卿 三女 安政六生六月二十八日生配 従五位 隆吉 一男四女 昭和十五年一月七日歿 享年八十有二」と刻む。墓所正面右の墓石「正三位勲二等八條隆正 / 室 遺子 墓」、裏面は隆正と遺子の没年月日が刻み、右面に八條隆正の略歴が刻む。墓所左手側に2基、左(墓所入口側)から「八條家之墓」、右が「八條佳子之墓」(1915-?:隆正の三女)。墓所右手側に4基、左(隆正墓石側)から、「八條駒子之墓」(1879-1944.6.6:隆吉の三女、隆正の養叔母:本田邦太に嫁ぐ)、「八條夙子之墓」(1907-?:隆正の二女)、「八條隆志之墓」(1925-?:隆正の五男:妻は山口洋子)、「八條隆秀之墓」(隆正の子であろうが詳細不明)。

*八條隆正と遺子との間には6男3女を儲けた。長男の八條隆篤(1899-1968)は従5位、日本勧業銀行に勤めた銀行家。隆篤の妻は枢密顧問官を務めた子爵の杉孫七郎の娘の英子。二人の間には3男1女(隆允1933-、隆韶1936-、隆栄1937-、明子1943-)。長女の敞子(1902-)は伯爵で帝室林野局事務官を務めた飛鳥井雅信に嫁ぐ。二男の隆孟(たかなが:1905-)は学習院時代から秀才で性格も温良。東京帝国大学在学中に左翼活動家となり、卒業後は日本興業銀行に勤めていたが、目白会の中心人物として「赤化華族事件」を起こす。妻は内田利江。二女は夙子(1907-1947)。三女は佳子(1915-)。三男と四男は早死(名前不明)。五男は隆忠(1925-)で妻は山口洋子(1933-)。六男は隆安(1927-)で植村寅生の養子となる(植村隆安)。なお墓が建つ八條隆秀は3男もしくは4男、さては人事興信録発行以降に生まれた7男であるのかは不明。嫁いだ長女の敞子、分家した二男の隆孟、養子に出た6男の隆安以外の兄弟全員が同墓所に眠る。


【赤化華族事件】
 1933年1月18日(S8)東京帝国大学在学中に左翼活動家となった八條隆正の二男の八条隆孟(たかなが:当時27歳)が治安維持法違反で検挙されたことから始まる事件。隆孟を皮切りに、同年3月下旬に、森俊守(当時24歳で父は旧三日月藩主の子爵)、久我通武(父は男爵で祖父は侯爵)、山口定男(当時23歳で祖父は明治天皇の侍従長)、上村邦之丞(当時20歳で海軍大将の孫)、岩倉靖子(当時20歳で公爵の娘、岩倉具視は曾祖父)、亀井茲健(当時22歳で父は昭和天皇の侍従で伯爵)、小倉公宗(当時23歳で父は子爵)、松平定光(当時23歳で父は旧桑名藩主で子爵)、さらに同年9月に中溝三郎(当時25歳で男爵)の10人が立て続けに検挙され、華族が共産主義思想の赤化する人物が現れたことで世間から注目された事件である。
 八条隆孟らは、1929頃に東京帝国大学内で学習院出身者でつくる「目白会」を立ち上げた。名称は母校の目白キャンパスから命名。最初は後輩たちと親睦目的の読書会(左翼用語でRS)を開きテキストはマルクス主義の文献であった。伏字だらけの文献を、八條たちが解読しながら勉強した。会員数は増えていき、検挙直前のピーク時は会員総数は85名(うち卒業生4名)で、その約三分の一が華族であった。
 目白会が開催されるキャンパス内は官憲の手入れが入りにくく、時代とともの左翼運動のオルグ(組織者)の場として使われるようになっていった。共産党へのカンパ資金を集めるようになり、また共産党の合法的機関紙「無産者新聞」を普及。しだいに会員の中から何人もの共産党員やシンパ(同調者)があらわれるようになった。
 会員の中でもやや年長で、すでに大学を卒業していた隆孟は共産党員ではなく目立つ活動もしていなかった。しかし、赤化華族事件の首謀者になったのは、華族社会の内部で着実に共産党の運動の輪を拡げようとした中心人物だったからである。計画が着々と進んでいると感じた隆孟は、共産党の非合法活動組織の名前を「ザーリア」と命名した。ロシア革命の時にいち早く革命側に加わった軍艦の艦名であり、もともとは「暁の光」という意味。
 実は当時の日本共産党の最高指導部には有名な警視庁特高の「スパイМ」(本名は飯塚盈延)が入り込んでおり、Мは隆孟らのシンパ網を自分が牛耳っていた党の家屋資金局資金部の下に組み込んだ。つまり赤化華族たちはМの掌の上で踊らされていた。当人はそれを全く知らなかった。'31頃に目白会の名簿を特高が手に入れ(Мからの情報と思われる)、治安維持法違反の嫌疑濃厚者や要注意人物の選別が始まる。隆孟はザーリアを組織した頃より特高に目を付けられ監視されていた。
 '33.1.18 ついに隆孟は検挙されるが、特高は華族であることを配慮して、兄である隆篤に電話をし、そちらで責任をもって連れてくれば弟を人目にさらすようなことはしないと伝えられ、隆孟は兄に付き添われ警視庁に出頭した。検挙後、隆孟は分家して平民となった。隆孟の検挙から一カ月後、ザーリアのメンバーだった学習院卒業生らが数人検挙された。同.3.27 森俊守、同.3.29 岩倉靖子が検挙。その他、華族5人が次々と検挙された。6月に小倉公宗、9月に京都で活動していた中溝三郎が検挙され、合計10名の華族が治安維持法違反容疑で特高の手に落ちた。当時は赤狩りが横行しており、一カ月平均千人前後が治安維持法違反容疑で特高に引っ張られていたため、思想犯の検挙は珍しくなかったが、華族がまとまって検挙されたことは大ニュースとなり世間をにぎわせた。
 政府は華族が共産主義思想の赤化する人物が現れたことに衝撃を受け、社会的影響力を考慮して、処罰より転向させる方針をとることにし可能な限り穏便に済ませるよう注意を払った。親兄弟も彼らを転向させようと必死になり、警察側も面会を積極的に認めた。これにより、八條隆孟、森俊守、岩倉靖子の三人以外はあっさり1、2カ月程度で反省手記を書き改心したため、温情で釈放された。中溝にいたっては一週間で釈放された。ところが、八條隆孟、森俊守、岩倉靖子の三人は、取り調べを担当した特高が想定していた以上に強く粘り、共産主義思想を曲げなかったため起訴されるに至った。唯一の女性の岩倉靖子は、約8か月半の獄中生活後、同年12月に保釈されたが直後に自ら命を絶った。
 岩倉靖子が亡くなったため、被告として法廷に出たのは八條隆孟と森俊守の二人であった。'34.1.16 八條隆孟、同.1.18 森俊守の公判が東京地裁で開かれた。起訴された二人であったが、公判が始まるまでには共に転向を表明していた。また、二人の父である八條隆正と森俊成は貴族院議員を辞し、謹慎の意を明らかにしており、情状酌量されて無罪もしくは執行猶予付きの判決は確実と弁護士は予想していたが、「日本華族の特権階級という皇室の御を尽くすべき任務ある人物が共産党の活動をした罪はぬぐわるべきではない」という裁判長の厳しい判決により、八條隆孟には懲役三年、森俊守に懲役二年の実刑判決を言い渡した。隆孟はこの判決に従い、市ヶ谷刑務所で刑に服した。一方、森俊守は判決を不服として控訴した。四か月後の東京控訴院での公判で、懲役二年執行猶予三年の判決を受けた。
 この事件で宮内省内で処理にあたった木戸幸一(18-1-3)は、赤化華族とその父兄たちに対し、事件の判決以外でも、華族令や華族戒飭令の厳しい処分を行うつもりでいたが、昭和天皇側近から「彼らの将来を考えて厳しい処分はしないように」との昭和天皇からの注意が伝えられたことで、木戸たち宮内省幹部たちの方針は一変した。事件に関与した華族関係者たちは、軽い譴責や訓戒に留まり、父兄への処分は一切されなかった。なお隆孟は検挙後すぐに分家をして平民となっていたので八條家は処分対象外とされた。
 刑期を終えた隆孟は、京都に住み、祇園の舞妓などを相手に話し方教室を開くなど、その後一切政治活動に関与しなかった。葬儀も遺言で無宗教で行われた(墓所地は不明)。

<華族歴史大事典「赤化華族事件・赤き皇室の藩屏」浅見雅男>
<華族・宮家名門の肖像>


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