本籍は京都府。八條家は藤原鎌足の裔。江戸前期に櫛笥隆賀(くしげ たかよし:1652-1733)の三男の隆英が創設した公家で八條を姓とする。四条分家・櫛笥支流・150石の公家。家格は羽林家。隆英(1702-1756)以降、隆輔(1736-1790)、隆礼(1764-1819)、隆祐(1795-1872)、隆聲(1826-1862)と続く。左近衛権中将を務めた八條隆聲、権大納言の橋本実久の娘の婉子の三男として生まれる。兄の辰麿、篤麿が早死したため、八條家6代目を継ぐ。
明治戊辰の頃、上近江権守を務め、従5位に列せられる。1876(M9)頃、堺県十二等出仕。翌年、司法省十四等出仕に転じ、1878 堺県六等警部、1879頃 同県六等属。1881 大阪上等裁判所検事補に任じ、同年末頃、名古屋裁判所検事補に転ずる。1882 東京始審裁判所判事補となる。
1884.7.8(M17)子爵を授爵。同.7.28 裁判官を免じ、東京始審裁判所詰御用掛となった日に逝去。享年34歳。
*隆吉は権大納言の坊城俊克の三女の田鶴子(安政6.6.28-S15.1.7)と結婚。1男4女を儲ける。長男と長女は早死。二女の章子は井上長之寿希に嫁ぐ。三女の駒子は本田邦太郞に嫁ぐがこの地に墓がある。四女の遺子(ゆいこ:1884.12.5-1969.2.3:同墓)は隆正に嫁ぐ。男子に恵まれなかったことで、伯爵の鷲尾隆聚の子の隆緝(1870-?)と、左近衛権中将の小倉輔季の子の隆邦(1865-1896)を養子として迎える。隆吉没後、1884 八條隆緝が家督と子爵を継ぐが、1888 離籍した。そのため、同年より八條隆邦が家督と子爵を継いだ。しかし、1896 隆邦が急死する。そこで、隆吉の四女の遺子と結婚することが決まっていた隆正(油小路隆董の三男)が隆邦死後に隆邦の養子となり、姓を八條として家督と子爵を相続した。当時、隆正はまだ修学中の学生であった。その後、大蔵官僚や貴族院議員(子爵議員)となり、'47 華族制度が廃止するまでつとめた。
*墓所内には8基建つ。墓所正面左の墓石「従五位子爵八條隆吉 / 室 田鶴子 墓」、裏面「昭和十五年二月重建之」。右面「自従一位 権代納言 坊城俊克 卿 女實為 従三位 左近衛権 将隆聲 卿 三女 安政六生六月二十八日生配 従五位 隆吉 一男四女 昭和十五年一月七日歿 享年八十有二」と刻む。墓所正面右の墓石「正三位勲二等八條隆正 / 室 遺子 墓」、裏面は隆正と遺子の没年月日が刻み、右面に八條隆正の略歴が刻む。墓所左手側に2基、左(墓所入口側)から「八條家之墓」、右が「八條佳子之墓」(1915-?:隆正の三女)。墓所右手側に4基、左(隆正墓石側)から、「八條駒子之墓」(1879-1944.6.6:隆吉の三女、隆正の養叔母:本田邦太郞に嫁ぐ)、「八條夙子之墓」(1907-?:隆正の二女)、「八條隆志之墓」(1925-?:隆正の五男:妻は山口洋子)、「八條隆秀之墓」(隆正の子であろうが詳細不明)。