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うえの きよし

上野 清

うえの きよし

1854(安政1)〜 1924.6.21(大正13)

明治・大正期の教育者、数学者

埋葬場所: 2区 1種 6側 11番

 江戸出身。号は閑雲。幼時、幕府・昌平黌で漢学を修め、数学を長兄の上野継光や福田理軒・治軒に学び、さらに独学で数理を攻究。
 1872(M5)18歳で「上野塾」を開く。多数の中等教科書を執筆。1875華族会館(学習院前身)へ数学教授として招聘される。 1877東京数学会社発足に伴い会員となり、数学用語の翻訳事業の可否を巡って中川将行と論争をした。上野は訳語統一の可能性に懐疑的であった。1879退社。研数学館長。他校で数学教授を兼任。
 1887川北朝鄰が興した数学協会に参加し、長澤亀之助(6-1-1-1)らと多数の洋書を翻訳出版した。また、多くの数学雑誌を主宰し、数学著書は60冊余である。 独自の数学界の主流派への批判は出色である。明治の数学教育への多大な貢献をした。1924.2青少年教育へ50余年従事した功績により勲6等叙勲。その4ヶ月後に逝去。享年70歳。
 上野塾は、1890(M23)東京数学院と改名。1893據中学校として新たに設立し、1899東京中学校と改名。1922(T11)併設して東京実業学校。 1954(S29)東京高等学校に校名を変更し現在に至る。終戦時の文部大臣を務めた太田耕造(22-1-44-17)は卒業生である。

<コンサイス日本人名事典>
<朝日日本歴史人物事典>
<碑石より>
<上野清様のご子孫様より情報提供>


石碑 墓所

*墓石は和型「上野清之墓」、左手に墓誌がある。左手側に和型「上野家之墓」が建ち、右手側に上野清の頌徳碑が建つ。頌徳碑は昭和三十九年六月二十一日上野塾の門下生により建之された。

*清の子には、2男で数学者の上野繁(同墓)、4男で会計学者の上野道輔(同墓)。


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