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うえはら まさき

2代目 上原真佐喜

うえはら まさき

1903.12.10(明治36)〜 1996.5.11(平成8)

大正・昭和期の箏曲家(山田流)、人間国宝

埋葬場所: 22区 1種 73側

 東京出身。初代 上原真佐喜(同墓)の三女。本名は林兎喜子。林家の養女。
 父(初代上原真佐喜)に習い、2世稀音家浄観に長唄を、山彦秀子に河東節を、菅野のぶに一中節を学び幅広く芸を修める。1933(S8)2代目「上原真佐喜」を襲名。山田流古典に優れた解釈と演奏技術を示す。また新作も手掛け、作曲にも尽力し、'66『香具山にのぼりて』で芸術祭賞。'70重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。'77「筝曲の伝統を守る会」結成披露会を米川文子(13-1-26-1 初代)と主催した。'80芸術院賞。'83日本芸術院会員。
 代表作として『八岐大蛇』『雪月花(雪の巻 册子の雪・月の巻 月づくし・花の巻 桜の宿)』『青き花』『宵夏』『独楽と毬』『吹上道成寺黒髪供養(第一部・第二部・第三部)』など多数ある。享年92歳。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大事典>


墓所 碑

*墓石は和型「初代 上原真佐喜 奥津城」、裏面「昭和三十八年四月 二代 上原真佐喜 建之」と刻む。左側に墓誌あり、初代上原真佐喜から刻みが始まり、「本名 幸太郎」と刻む。妻は烏兎(T15.4.18歿・享年53)。次に戦死した上原正光。明治・大正期に十代で早死した子が4名続き、終戦の日(S20.8.15)に亡くなった忠子。そして、2代目上原眞佐喜(「二代」と刻む)と続く。

*筝曲の世界には山田流と生田流の二つの流派があり、それぞれの代表的な人物が多磨霊園に眠る。人間国宝となった山田流の2代目 上原真佐喜と、生田流の初代 米川文子(13-1-26-1)。流派が異なる二人は、1977「筝曲の伝統を守る会」を結成し、一緒に披露会を行っている。


山田流箏曲
 山田流箏曲は、山田検校(1757〜1817)が江戸において、江戸人の好みに合った新様式を用いて作られた箏曲である。江戸は八橋検校が俗箏を確立した地でありながら、山田流の出現までは箏曲が普及しなかった。武士が中心の江戸は、貴族的・古典的イメージの箏曲は余り受け入れられない土地柄であり、地歌と共に西日本一帯に普及していた生田流箏曲も、地歌そのものが江戸の人たちの嗜好と合わずに普及が遅れていた。
 山田検校は、医師山田松黒より箏曲を学んだため、箏曲組歌に対する権威的な考え方に規制されずに、自由な発想で箏曲を考えることができた。当時浄瑠璃と謡曲は江戸の町家、武家共に最も愛好された音楽であった。山田検校は、江戸浄瑠璃に合う、旋律に起伏があって、音域も高く軽いテンポのある箏曲をつくることによって、大衆の支持を得たのである。山田検校の新様式の箏曲は箏曲組歌以来の箏の声楽曲の出現であった。歌詞も山田検校によって作詞されており、叙事的、叙景的内容で占められている。

「爪」は三角(やま型)で、絃に対して爪を垂直にあて、やまの一番高いところで弾きます。


生田流箏曲
 生田流箏曲は生田検校(1655〜1715)が元禄8年(1695)に興したもので、三味線音楽として作曲された地歌と箏を合奏させる為に、新たに考案された箏の奏法や調弦等によって箏の音楽表現を飛躍的に向上させた箏曲である。
 生田検校は、箏という上流階級に限られた音楽を、より広い階層にさせたと言われる。生田流箏曲は、作曲形式が規定された箏曲組歌、上方(大阪)で発展した三味線長歌、三味線を伴奏とする情緒的歌曲である端歌、といった歴史的な変遷を経て、地歌の発展という形態で変化していった。これらの変化は、経済的実権を握った大阪の町人社会の進展に呼応したものである。
 急速に台頭した新興商人達は、伝統的な京都の町民と対等に付き合うために、諸芸に励みはじめ、芸事ブームをおこしていった。これらの芸事を通じて一般大衆の教養は向上し、箏曲演奏家達も更に高い音楽性を求めて歩み始めたのである。寛政期(1789〜1800)に入ると、地歌の構成が変化し、三味線の器楽的技巧を重視した「手事物」が出現した。「手事物」とは歌と歌をつなぐ「合の手」と呼ばれる間奏が発達したもので、三味線だけによる長い間奏が「手事」である。

「爪(つめ)」の形が、四角く、手を斜めにして、その角を鋭角に絃にあてて弾きます。



第351回 山田流 箏曲家 人間国宝 上原真佐喜 お墓ツアー 筝曲の歴史


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