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うちだ ただみつ

内田忠光

うちだ ただみつ

1870(明治3)〜 1922.12.13(大正11)

明治・大正期の実業家

埋葬場所: 14区 1種 9側

 筑前国福岡(福岡県)出身。父は筑前勤皇党の志士で武道家の内田良五郎(同墓)、弟に内田良平(14-1-9)がいる。後に玄洋社初代社長になる平岡浩太郎は叔父。
 叔父の経営する赤池炭鉱に入社し、機械課長を務め、のち経営に参加した。1894(M27)東学党の乱では、弟の良平の渡鮮を助ける。日露戦争後、良平らの国家主義運動支援の資金獲得のため、自身も朝鮮に渡り大同洋行、北韓漁業、北京西山炭鉱などを興したが失敗した。享年52歳。

<20世紀日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>


墓所

*バス通りに面している「内田良平」の墓の裏側に、独立した墓所として「内田家累代之墓」が建つ。左側に墓誌があり、俗名・没年月日・行年が刻む。戒名の刻みはない。


【東学党の乱】
 1894(M27)朝鮮で起きた農民の内乱のことで、「甲午農民戦争」とも呼ばれている。
 当時の閔氏(びんし)政権の重税政策、両班(身分ある官僚)たちの間での賄賂と不正収奪の横行、閔氏政権の開国政策により外国資本が進出してくるなどにより朝鮮の民衆の生活は苦しい状況であった。そのような中で、朝鮮の改革として壬午事変や甲申政変のような民衆・農民の蜂起(民乱)があったが失敗に終わり、閔氏も自らの手で改革を行うことができずにいた。改革も行われず民衆の不満は高まり、1883年から各地で蜂起が起きていた。このような時世に「東学党の乱」が起きたという背景がある。
 1894全羅道古阜郡で、群守の趙秉甲が水税の横領を起こし、その横領に対して全羅道観察使に哀願を行った農民が逆に逮捕される事件が起きた。この事件により、同年春に、崔済愚の高弟で東学党の二代目教祖となった崔時亨が武力蜂起をし「東学党の乱」へと発展した。内田良平は東学党支援のため玄洋社から朝鮮に派遣された。そこで「天佑侠」を組織、革命戦線に加わった。反乱軍は全ボン準が農民を統率。全ボン準の呼びかけ文が東学信者の手で全道に撒かれ、呼びかけに応じた農民で数万の軍勢を形成した。農民の軍勢は全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領するまでに至った。
 これに驚いた閔氏政権は清国に援軍を要請。天津条約にもとづき、日清互いに朝鮮出兵を通告し、日本は公使館警護と在留邦人保護の名目に派兵し、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。この状況に慌てた閔氏政権は、農民の提案を基に全州和約を作成し締結したといわれる。
 反乱が収束し、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れるが、両国は受け入れずに対峙を続けた。日本は清に対し朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案し、イギリスも調停案を清へ出すが、清は「日本(のみ)の撤兵が条件」として拒否。日本は朝鮮に対して、「朝鮮の自主独立を侵害」する清軍の撤退と清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)について3日以内に回答するよう申入れた。この申入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐するとの意味も含まれていた。これに朝鮮政府は「改革は自主的に行う」「乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請」と回答。一方朝鮮国内では大院君がクーデターを起こして閔氏政権を追放し、金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は甲午改革(内政改革)を進め、日本に対して牙山の清軍掃討を依頼した。そして豊島沖海戦、成歓の戦いが行われた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をし「日清戦争」が勃発した。


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