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うちだ りょうごろう

内田良五郎

うちだ りょうごろう

1837(天保8.4.9)〜 1921.9.22(大正10)

幕末期の筑前勤皇党の志士、明治期の武道家

埋葬場所: 14区 1種 9側

 筑前国福岡地行五番丁(福岡県)出身。平岡仁三郎の第一子。幼名は幸太郎。後に良之助と称し、更に良五郎と改む(墓誌には良五郎と刻む)。13歳の時に内田武三の嗣となる。
 黒田藩の足軽になり、維新前は、平野国臣(勤王派の志士)に従い国事に奔走した。1864(元治1)国臣が八月十八日の政変で挫折し京都にて禁門の変の際に生じた火災を口実に処刑された。一連のことで藩から忌むところとなり、国臣の弟の平山能忍、平野三郎らと共に幽囚に処せらる。
 戊辰の役では東北(奥羽)の野に転戦して功あり、禄四人扶持十二石に加増し、士籍に編入せらる。維新の初めの藩政改革に際し、奥羽戦役の実戦上より経験したるを考案し藩の軍制改革を主張、これを建議し認められ、軍事掛書記に任ぜられた。特に輜重(しちょう:前線に輸送、補給するべき兵糧、被服、武器、弾薬などの軍需品)の敏活に図る重要性を説いた。廃藩置県後、1871(M4)陸軍少属に任じ、武器掛(旧藩所有の武器保管)を命ぜられた。有栖川宮熾仁親王の福岡県知事として着任するに当り、随行員たる陸軍少将の井田譲に対し、その保管に係る武器一切の引継を了した。
 1873筑前で百姓一揆が蜂起するや、中村用六等と共に県庁の許可を得て義勇兵を募り本営を勝立寺に置いた。一揆を包囲して自ら身を投じ極力説諭し鎮撫に従事した。翌年、佐賀の役でも福岡鎮撫隊に加わり筑肥の境に出征した。ここでも説諭にて鎮圧しようとしたが、暴民熱狂を得て制すことができず、その間に、一揆は既に福岡市中に入り、県庁を襲い火の海と化していた。中村用六等は兵を率いて県庁を護し鎮制することを得たが、用六を始めとし数名はこの失態を謝するため切腹した。良五郎は当初より福岡方面に向かう禍乱を未然に制すべしという策を出していたが、それが容れられずして、結果的に用六等の人才を失ったことを惜しんだという。
 1877旧藩士が蜂起した「十年の役」(西南戦争)では、越智彦四郎、武部小四郎等の薩軍に応ぜんとするや、同志の士、常に良五郎の家に会して軍議を凝らした。相会して福岡城襲撃の策を議す。福岡党の軍を破ったが、警吏が良五郎の居住を囲み捕まえようとしたところ、同士の招きで伊佐崎浦に赴いており家に在らず、弟の平岡徳次郎や白石留吉を捕縛して去った。二人は今回の事件に関与しておらず一夜留置で放免された。彦四郎の嘱を受け、急行して兼松に赴き、田原陥落の報を齎らして還り、大野卯太郎と共に輜重係となり斡旋した。敗戦後、数年間、残島その他の各地に潜伏し、後に弟の平岡浩太郎(後に頭山満と共に玄洋社を創立し政治家として活躍)を輔佐して、赤池、豊国等の炭坑経営を営んだ。
 身長は五尺六寸余(約170センチ)で骨格雄偉、膂力(腕の力)が優れ武芸修錬に励み武芸の達人とも称される。剣術は小野派一刀流の幾岡平太郎の門に入り免許を得て、中西忠太の皆伝を許された。柔術は扱心流を藩の師範石川雄兵衛に、棒術天真正伝神道夢想流、及び捕手一角流は平野吉右衛門に、砲術は津田武右衛門に学び、鎗術と共に悉くその師の免許を受けた。晩年は武道家として自ら洋杖術を創案し、内田流短杖術を創始した。その術は最も変化に富み、洋杖を以て対敵の用に供するに極めて効能ある術と云う。また神道夢想流杖術の普及活動に尽力した。東京に於てこれを剣聖の中山博道に皆伝したとされる。享年84歳。

<西南記伝など>


墓所

*バス通りに面している「内田良平」の墓の裏側に、独立した墓所として「内田家累代之墓」が建つ。左側に墓誌があり、俗名・没年月日・行年が刻む。戒名の刻みはない。

*平岡家代々及び平岡浩太郎の墓は福岡市博多区の聖福寺にある。聖福寺は日本最初の本格的な禅寺として有名。この寺には他にも広田弘毅(A級戦犯となった首相)・緒方竹虎(ジャーナリスト・政治家)らも眠る。

*長男の内田忠光(同墓)は弟の平岡浩太郎が経営していた赤池炭鉱を主とした実業家。三男は国家主義右翼団体の黒龍会の中心人物である内田良平。黒龍会は玄洋社の海外工作センターとも言われており、その政治団体である玄洋社の初代社長が平岡浩太郎である。

*剣聖の中山博道(本名は中山資信)は内田良五郎から杖術を学んだことによって剣道の裏が分かり、杖の技が剣に大いに役立ったと語っている。中山は剣道・居合・杖道の三道に精通した数少ない三道範士である。


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