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おおいし だんぞう/たかみ やいち

大石団蔵(高見弥市)

おおいし だんぞう
(たかみ やいち)

1831.1(天保2)〜 1896.2.28(明治29)

幕末の志士、土佐藩士、薩摩藩士

埋葬場所: 22区 1種 5側 11番(高見家)

 幼名は鹿之助。のち俊良または祐之(やすゆき)。土佐藩士の時は大石団蔵。土佐脱藩後の薩摩藩士の時は高見弥市。留学時の変名として松元誠一を名乗る。
 土佐の香美郡野市村横井(野市町)出身。磯平の長男として生まれた。 磯平は、その兄の大石右衛門(大石圓の父)の教育に入っていたが、1850(嘉永3)郷土株を買い受けて独立する。 父の没後、1860(万延1)その遺職を相続し、久枝台場の小頭役などを務める。1861(文久1)土佐勤王党に加盟。 12月に盟主の武市瑞山の命を帯び、妻の兄の山本善三之進とともに長州に使いし、九州には一人足を伸ばし、薩摩入りを計画したが果たせず帰国する。
 1862(文久2)4月8日の雨の夜、那須信吾、安岡嘉助とともに高知城下で藩参政を務めていた吉田東洋を暗殺。 土佐藩の藩論を巡って、吉田東洋と意見が衝突していた土佐勤王党の武市半平太は、最終的な手段として、大石・那須・安岡の三人を刺客に選び暗殺の指示を出したのである。 吉田東洋の首を鏡川河原にさらし、土佐勤王党の命を挙げたかに思えたが、暗殺者のレッテルを貼られ脱藩せざるを得なくなった。 京都の長州藩邸に逃れ久坂玄瑞の保護を受けた。やがて薩摩藩邸に移り潜伏20ヶ月ののち、薩摩藩士の奈良原喜八郎(繁)に保護され薩摩入り。奈良原の養子となって高見弥市と改名、薩摩藩士に召し抱えられる。
 薩摩藩に亡命し、1864(元治1)6月に設立した洋学教育学校「開成所」の第二等諸生に選抜され、そこで蘭学を中心に、陸海軍砲術、天文地理学、物理学、測量学、数学等々、多岐にわたる西洋学を学んだ。 開成所開校の間もない頃より、薩摩藩内では志の高い優秀な藩士を選抜し、イギリスに留学させる計画が持ち上がり、1865(慶応1)1月18日に藩庁は藩内から15名の青年藩士と4名の使節団を選抜し、イギリスへの留学を命じた。 高見弥市は土佐出身にも関わらず優秀な薩摩藩士の一人として選ばれた。他に長崎出身の堀孝之が通訳として選ばれている。 同年3月22日薩摩城下を出て一隻の蒸気船オースタライエン号に乗り込み、鹿児島の西方串木野郷にある小さな港町の羽島浦から一路イギリスに向けて出航した。 出航三日後の船上にて、留学生たちは髷(まげ)を切り断髪。シンガポール、スエズ、地中海を経て、6月21日英国サザンプトン港到着。 青年たちはロンドン大学に留学。森有礼とロンドン大学(ユニバシティ・カレッジ)化学教授グレイの家に寄宿した。運用測量、機関学、数学を学んだ。
 1867帰国し、鹿児島県立中学校造士館(旧制七高)で算数教師を務める。鹿児島市加冶屋町で病没。享年66歳。

<高知県人名事典>
<幕末維新江戸東京史跡事典>
<鹿児島史学第29号所載「薩藩海外留学生高見弥市について」(山田尚二)>
<薩長派遣留学生の明治維新など>


墓所

*大石團蔵とも書く。

*墓石は「高見家之墓」。墓石裏面には「昭和九年十一月 高見長恒建之」とのみ刻み、墓誌などもない。大石団蔵(高見弥市)の遺骨は、鹿児島市草牟田の墓地から1927(S2)多磨霊園に改葬されており、改葬後にできた墓石であることがわかる。 なお、生年に諸説あることから、享年が人名事典により異なる。高知県人名事典によると多磨霊園へ改葬前の墓石には享年53歳と刻まれていたようである。

*鹿児島中央駅東口広場にある薩摩藩英国留学生をモチーフにしたブロンズ像「若き薩摩の群像」(1987中村晋也制作)ならびに、ロンドンのユニバシティ・カレッジ校庭の「日本記念碑」に名が刻む。2020(R2)高見弥市、堀孝之のブロンズも制作され設置された。なお、堀孝之の孫で政治学者の堀豊彦、ひ孫の堀孝彦は倫理学者・英学者。堀豊彦と堀孝彦は22区1種84側に眠る。なお、鹿児島中央駅東口広場にある「若き薩摩の群像」の青年藩士の数は17名である。 よって、純粋な薩摩藩士ではなかった高見弥市、堀孝之のブロンズは制作されず、群像の傍らの案内板に写真入で紹介されている。


【薩摩藩英国留学生】
 1863(文久3)薩英戦争において、西欧文明の偉大さに痛感させられた薩摩藩は、幕府の鎖国令を犯して、1865(慶応1)15名の留学生と4名の使節団を英国に派遣した。よって、密航留学とも言う。
 留学を果たした使節団を含む19名は、幕府の鎖国令を破っての派遣だったので、全員変名を使って、甑島大島辺出張という名目でイギリスへ出航した。
 薩摩留学よりも早く、長州藩青年が自費により英国に留学するため密出国している。 井上馨、伊藤博文、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助の五人である。1864薩英戦争の勃発により、井上、伊藤は急遽帰国。 翌年、残った長州藩留学生三名は薩摩留学生の面倒を見ていたグラバー商会のライル・ホームに路上で出会った事を機に、薩摩藩と長州藩の留学生交流が生まれた。薩長同盟が結ばれる前の出来事である。
 薩摩留学生はロンドン大学で二年間学び、大部分がアメリカやフランスに渡り留学生活を続け、帰国後、明治政府に仕えて、日本の近代化のために尽力した人物が多い。


みほん(表の見方)
〔   〕
出航時
の氏名
出航は密航の
ための偽名
社会で活躍時
の氏名
出航時
の年齢
出航時の役職・役割
帰国後の簡略歴


〔使節団〕
氏名変名後の氏名年齢役職
新納刑部石垣鋭之助新納久脩
(にいろ ひさのぶ)
33大目付御軍役日勤視察
五代と共にイギリスで紡績機械を購入し、1867鹿児島市磯に、日本最初の機械紡績工場『鹿児島紡績所』を建設した。後に、薩摩藩家老、のち司法官。
松木弘安出水泉蔵寺島宗則33御船奉行
イギリス外務省に働きかけ天皇の下に統一国家日本をつくる必要性を訴え理解を得た。これを機にイギリスは幕府を支援するフランスに対して、薩長倒幕派を支援し、倒幕運動に重大な影響を与えた。後に、外務卿・文部卿・元老院議長・枢密顧問官を務めた。
五代才助関研蔵五代友厚29御船奉行
新納と共に紡績機械を購入し、『鹿児島紡績所』の設立。大阪を本拠に鉱山、製藍、鉄道などの事業をおこす。明治11年大阪商法会議所・大阪株式取引所・大阪商業講習所(大阪商科大学)を設立。14年開拓使官有物払い下げ事件をおこした。大阪商工業の近代化の父。
堀孝之高木政次 21英語通弁
通訳として使節団のメンバーに加わる。長崎出身。後、大阪で実業家となった五代友厚の片腕として手腕を振るった。なお、父の堀達之助はペリー来航の際の通訳を務め、わが国最初に刊行された英和辞典を編纂した人物である。


〔留学生〕
氏名変名後の氏名年齢役職
町田民部上野良太郎町田久成28開成所掛大目付学頭
内務省に出仕。帝国博物館初代館長を務める。三井寺光浄院住職。
村橋直衛橋直輔村橋久成23御小姓組番頭
戊辰の役で砲隊長として活躍し、その後北海道開拓使となり、麦酒醸造所創設(サッポロビールの生みの親)した。
畠山丈之助杉浦弘蔵畠山義成23当番頭
東京開成学校(東京大学)初代校長となり、わが国の文教の発展に尽くした。
名越平馬三笠政之介 21当番頭
留学先で陸軍砲術を学び、慶応2年に帰国したが、その後の消息不明。
市来勘十郎(和彦)松村淳蔵松村淳蔵24奥御小姓。開成所諸生
アメリカアナポリス海軍兵学校を卒業、わが国海軍の建設に力を尽くし海軍中将、第3代海軍兵学校長となった。
中村博愛吉野清左衛門 25医師
公使となり外交界で活躍。フランス語教授・領事・公使・外交顧問を務めた。
田中静洲(盛明)朝倉省吾朝倉盛明23開成所句読師
薩摩開成所にてフランス語教師、兵庫県生野銀山の再開発に尽力。日本の鉱業の発展に大きく寄与。
鮫島尚信野田仲平 21開成所句読師
公使となり外交界で活躍。外国官権判事・東京府判事・外務大丞を務めた。
吉田巳二長井五百助吉田清成21開成所句読師
公使となり外交界で活躍。理財家。枢密顧問官・元老院議官を務めた。
高見弥一松元誠一 31開成所諸生
帰国後は教育者として算数教師を務める。
東郷愛之進岩屋虎之助 23開成所諸生
留学先で海軍機械術を学ぶ。帰国後明治1年戊辰戦争に出陣し、東北を転戦、陣中で戦死。
森金之丞沢井鉄馬森有礼19開成所諸生
初代文部大臣となり、わが国の文教の発展に尽くした。
町田申四郎塩田権之丞 19開成所諸生
町田民部(久成)は兄、清蔵(清次郎)は弟。留学先では海軍軍事について学ぶ。慶応2年に帰国するが、その後の消息不明。
町田清蔵(実行)清水兼次郎町田清次郎15開成所諸生
町田民部(久成)、申四郎は兄。留学先で造船技術を学ぶ。フランス留学を希望するが兄の民部の反対により断念。慶応2年に帰国するが、その後の消息不明。
磯永彦輔長沢鼎長沢鼎13開成所諸生
出航時13歳の最年少。生涯アメリカで送り、広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造に新生面を開き、カリフォルニアのぶどう王と言われた。



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