幼名は鹿之助。のち俊良または祐之(やすゆき)。土佐藩士の時は大石団蔵。土佐脱藩後の薩摩藩士の時は高見弥市。留学時の変名として松元誠一を名乗る。
土佐の香美郡野市村横井(野市町)出身。磯平の長男として生まれた。
磯平は、その兄の大石右衛門(大石圓の父)の教育に入っていたが、1850(嘉永3)郷土株を買い受けて独立する。
父の没後、1860(万延1)その遺職を相続し、久枝台場の小頭役などを務める。1861(文久1)土佐勤王党に加盟。
12月に盟主の武市瑞山の命を帯び、妻の兄の山本善三之進とともに長州に使いし、九州には一人足を伸ばし、薩摩入りを計画したが果たせず帰国する。
1862(文久2)4月8日の雨の夜、那須信吾、安岡嘉助とともに高知城下で藩参政を務めていた吉田東洋を暗殺。
土佐藩の藩論を巡って、吉田東洋と意見が衝突していた土佐勤王党の武市半平太は、最終的な手段として、大石・那須・安岡の三人を刺客に選び暗殺の指示を出したのである。
吉田東洋の首を鏡川河原にさらし、土佐勤王党の命を挙げたかに思えたが、暗殺者のレッテルを貼られ脱藩せざるを得なくなった。
京都の長州藩邸に逃れ久坂玄瑞の保護を受けた。やがて薩摩藩邸に移り潜伏20ヶ月ののち、薩摩藩士の奈良原喜八郎(繁)に保護され薩摩入り。奈良原の養子となって高見弥市と改名、薩摩藩士に召し抱えられる。
薩摩藩に亡命し、1864(元治1)6月に設立した洋学教育学校「開成所」の第二等諸生に選抜され、そこで蘭学を中心に、陸海軍砲術、天文地理学、物理学、測量学、数学等々、多岐にわたる西洋学を学んだ。
開成所開校の間もない頃より、薩摩藩内では志の高い優秀な藩士を選抜し、イギリスに留学させる計画が持ち上がり、1865(慶応1)1月18日に藩庁は藩内から15名の青年藩士と4名の使節団を選抜し、イギリスへの留学を命じた。
高見弥市は土佐出身にも関わらず優秀な薩摩藩士の一人として選ばれた。他に長崎出身の堀孝之が通訳として選ばれている。
同年3月22日薩摩城下を出て一隻の蒸気船オースタライエン号に乗り込み、鹿児島の西方串木野郷にある小さな港町の羽島浦から一路イギリスに向けて出航した。
出航三日後の船上にて、留学生たちは髷(まげ)を切り断髪。シンガポール、スエズ、地中海を経て、6月21日英国サザンプトン港到着。
青年たちはロンドン大学に留学。森有礼とロンドン大学(ユニバシティ・カレッジ)化学教授グレイの家に寄宿した。運用測量、機関学、数学を学んだ。
1867帰国し、鹿児島県立中学校造士館(旧制七高)で算数教師を務める。鹿児島市加冶屋町で病没。享年66歳。
*大石團蔵とも書く。
*墓石は「高見家之墓」。墓石裏面には「昭和九年十一月 高見長恒建之」とのみ刻み、墓誌などもない。大石団蔵(高見弥市)の遺骨は、鹿児島市草牟田の墓地から1927(S2)多磨霊園に改葬されており、改葬後にできた墓石であることがわかる。
なお、生年に諸説あることから、享年が人名事典により異なる。高知県人名事典によると多磨霊園へ改葬前の墓石には享年53歳と刻まれていたようである。
*鹿児島中央駅東口広場にある薩摩藩英国留学生をモチーフにしたブロンズ像「若き薩摩の群像」(1987中村晋也制作)ならびに、ロンドンのユニバシティ・カレッジ校庭の「日本記念碑」に名が刻む。2020(R2)高見弥市、堀孝之のブロンズも制作され設置された。なお、堀孝之の孫で政治学者の堀豊彦、ひ孫の堀孝彦は倫理学者・英学者。堀豊彦と堀孝彦は22区1種84側に眠る。なお、鹿児島中央駅東口広場にある「若き薩摩の群像」の青年藩士の数は17名である。
よって、純粋な薩摩藩士ではなかった高見弥市、堀孝之のブロンズは制作されず、群像の傍らの案内板に写真入で紹介されている。
【薩摩藩英国留学生】
1863(文久3)薩英戦争において、西欧文明の偉大さに痛感させられた薩摩藩は、幕府の鎖国令を犯して、1865(慶応1)15名の留学生と4名の使節団を英国に派遣した。よって、密航留学とも言う。
留学を果たした使節団を含む19名は、幕府の鎖国令を破っての派遣だったので、全員変名を使って、甑島大島辺出張という名目でイギリスへ出航した。
薩摩留学よりも早く、長州藩青年が自費により英国に留学するため密出国している。
井上馨、伊藤博文、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助の五人である。1864薩英戦争の勃発により、井上、伊藤は急遽帰国。
翌年、残った長州藩留学生三名は薩摩留学生の面倒を見ていたグラバー商会のライル・ホームに路上で出会った事を機に、薩摩藩と長州藩の留学生交流が生まれた。薩長同盟が結ばれる前の出来事である。
薩摩留学生はロンドン大学で二年間学び、大部分がアメリカやフランスに渡り留学生活を続け、帰国後、明治政府に仕えて、日本の近代化のために尽力した人物が多い。
〔留学生〕 |
氏名 | 変名 | 後の氏名 | 年齢 | 役職 |
町田民部 | 上野良太郎 | 町田久成 | 28 | 開成所掛大目付学頭 |
内務省に出仕。帝国博物館初代館長を務める。三井寺光浄院住職。 |
村橋直衛 | 橋直輔 | 村橋久成 | 23 | 御小姓組番頭 |
戊辰の役で砲隊長として活躍し、その後北海道開拓使となり、麦酒醸造所創設(サッポロビールの生みの親)した。 |
畠山丈之助 | 杉浦弘蔵 | 畠山義成 | 23 | 当番頭 |
東京開成学校(東京大学)初代校長となり、わが国の文教の発展に尽くした。 |
名越平馬 | 三笠政之介 | | 21 | 当番頭 |
留学先で陸軍砲術を学び、慶応2年に帰国したが、その後の消息不明。 |
市来勘十郎(和彦) | 松村淳蔵 | 松村淳蔵 | 24 | 奥御小姓。開成所諸生 |
アメリカアナポリス海軍兵学校を卒業、わが国海軍の建設に力を尽くし海軍中将、第3代海軍兵学校長となった。 |
中村博愛 | 吉野清左衛門 | | 25 | 医師 |
公使となり外交界で活躍。フランス語教授・領事・公使・外交顧問を務めた。 |
田中静洲(盛明) | 朝倉省吾 | 朝倉盛明 | 23 | 開成所句読師 |
薩摩開成所にてフランス語教師、兵庫県生野銀山の再開発に尽力。日本の鉱業の発展に大きく寄与。 |
鮫島尚信 | 野田仲平 | | 21 | 開成所句読師 |
公使となり外交界で活躍。外国官権判事・東京府判事・外務大丞を務めた。 |
吉田巳二 | 長井五百助 | 吉田清成 | 21 | 開成所句読師 |
公使となり外交界で活躍。理財家。枢密顧問官・元老院議官を務めた。 |
高見弥一 | 松元誠一 | | 31 | 開成所諸生 |
帰国後は教育者として算数教師を務める。 |
東郷愛之進 | 岩屋虎之助 | | 23 | 開成所諸生 |
留学先で海軍機械術を学ぶ。帰国後明治1年戊辰戦争に出陣し、東北を転戦、陣中で戦死。 |
森金之丞 | 沢井鉄馬 | 森有礼 | 19 | 開成所諸生 |
初代文部大臣となり、わが国の文教の発展に尽くした。 |
町田申四郎 | 塩田権之丞 | | 19 | 開成所諸生 |
町田民部(久成)は兄、清蔵(清次郎)は弟。留学先では海軍軍事について学ぶ。慶応2年に帰国するが、その後の消息不明。 |
町田清蔵(実行) | 清水兼次郎 | 町田清次郎 | 15 | 開成所諸生 |
町田民部(久成)、申四郎は兄。留学先で造船技術を学ぶ。フランス留学を希望するが兄の民部の反対により断念。慶応2年に帰国するが、その後の消息不明。 |
磯永彦輔 | 長沢鼎 | 長沢鼎 | 13 | 開成所諸生 |
出航時13歳の最年少。生涯アメリカで送り、広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造に新生面を開き、カリフォルニアのぶどう王と言われた。
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