北海道函館出身。直接クラーク博士から指導を受けた札幌農学校1期生13名の中のひとりであった小野兼基・サワ(共に同墓)の長男。
1910(M43)京都帝国大学土木工学科卒業後、宮内所省匠寮嘱託となり、京都御所防火水道の建設などに関わった。
'21(T10)当時国内の実例で多かった重力式コンクリートダムやアースダムではなく、我が国最初の扶壁式中空鉄筋コンクリ−トダム(バットレス式ダム)を採用した「笹流ダム」の設計と工事指揮にあたる。
この方式は、薄い鉄筋コンクリート版(頂部の厚さ約30cm)を23基の三角形の扶壁(バットレス)と6本の横桁が支える工法であり、水をせき止める施設である提体の容積を小さくでき、高価であったコンクリートを節約、工期も短縮することができ、建設コストを縮減することができたとされている。
なお、このダムは現在でも利水専用ダムとして我が国で唯一のダムである。加えて、バットレス式ダムは現在日本で6例しかない。
'36(S11)東京市の小河内貯水池(ダム)を水源とする第二次水道拡張事業を、小河内貯水池建設事務所長として手掛けた。
'42東京市水道局長に就任。局長時代は太平洋戦争の時期であり、海軍より基地強化のためにダム工事に使用中の機械の供出する命が下り、翌日にはダム建設用現場に水兵がトラックで乗り込み、海軍施設本部臨時出張所の看板を掲げた。
徴用の通告を受けたのは主要機械類95点、25tケーブルクレーン、砕石機など約40点は海軍の要請で台湾総督府へ譲渡された。
すえ付け終わったものでさえも撤去されたため、ダムの工事続行は不可能となり、後に小野自身は、「本当にこの時は情けなかった」とコメントしている。
その後、小野基樹建設事務所長として活動した。日本ダム協会会長。享年90歳。
*墓石は和型で「小野家之墓」(野は堅の臣ではなく田である異体字)。右側に墓誌が建つ。
*父の小野兼基は札幌農学校1期生であり、内村鑑三(8-1-16-29)や新渡戸稲造(7-1-5-11)らは2期生で後輩にあたる。
ちなみに、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の言葉で有名なクラーク博士は開校時の教頭(校長は調所広丈で1876.8.14開校)であり8ヶ月の在任で、2期生には指導をしていない。
2期生を指導したのはクラークに代わって教頭となったホイーラーである。