島根県那賀郡川登村(現江津市松川町字市村)の出身。
樺太日日新聞(樺日)の記者を務めていた時に、1918(T7)実業家であり編集人であった遠藤米七から樺太日日新聞(樺日)を譲り受け、社長に就任。以後、樺太炭礦取締役。
樺太電気監査役なども務めた。樺太の豊原地区の代表的人物として、樺太・北海道合併反対同盟会代表や、樺太町村制の改正及び樺太への衆議院議員選挙法施行のための陳情活動など活発に行った。
1928.2.20(S3)第16回衆議院議員総選挙に郷里の島根2区から立憲政友会所属で立候補して初当選。以降、同選挙区から立憲政友会で出馬を続ける。
'30.2.20第17回衆議院議員総選挙は落選、'32.2.20第18回衆議院議員総選挙では当選(2回目)、'36.2.20第19回衆議院議員総選挙は落選、'37.4.30第20回衆議院議員総選挙では当選(3回目)した。
一貫し樺太に選挙法を施行することを訴え続けてきたが、時期尚早論とされ、特に選挙法の樺太への施行が朝鮮、台湾在住民を刺激しその統治に支障をきたすという理由で、衆議院を通過しても、貴族院で否決され続けた。
樺太を内務省管轄問題が発生し、戦時下での東条内閣で内地に編入されることが決まり、'45.8.9ソ連が侵攻(樺太の戦い)、終戦後には樺太自体がソ連に渡ることとなってしまった。以後、東京に住居をおき、神奈川県の国府津に別荘も所有、隠居した。
'65.11.1私財500万円及び蔵書715冊をあわせて、郷里の島根県立江津工業高等学校に寄贈。「高潔なる人格と知性、高度の技術を会得するためには読書に優る方法なし」という言葉も贈った。
学校側は500万円のうち300万円で基本図書2,540冊を購入して沖島文庫をつくり、残額200万円と後に追加寄贈された50万円で沖島文庫基金として、基金から生じた利息は永久にこの文庫の図書充実費とされている。学校内には沖島鎌三の胸像が建つ。享年90歳。
【沖島鎌三が生きた樺太】
1924(T13)加藤高明内閣の行政整理の一環として樺太・北海道合併案が提起された。樺太・北海道合併案は過去にも出たことがあるが、主として政友会の主張によることが多く、蔵相は高橋是清(8-1-2-16)である。
しかし、今回の合併案が伝えられると、樺太では大規模な反対運動が起こった。豊原地区で沖島鎌三を発起人代表として樺北合併反対同盟会が結成されると他もこれに合流した。
反対運動により樺北合併は終息したが、連動して、1926樺太における参政権獲得運動が開始され、樺太は「内地延長」か「植民地」かの議論が行われるようになった。
遠藤米七・沖島鎌三ら「豊泊真〔豊原・大泊・真岡〕の三町」からの上京委員により、樺太町村制の改正及び樺太への衆議院議員選挙法施行のための陳情活動が開始された。
この陳情活動を受けて、'26.3 第51議会に樺太への衆議院議員選挙法施行に関する法案が議員提出された。これは衆議院で委員会を全会一致で通過しながら上程をみず審議未了となる。
以後、同趣旨の法案は'27(第52議会)、'29(第56議会)、'31(第59議会)と三度にわたり衆議院で賛成多数で可決されながら、貴族院で審議未了となり、結局、樺太参政権問題は運動としても途絶した。
濱口内閣の時には、松田源治(7-1-15-23)拓務大臣が「樺太に選挙法を施行するに最早何等躊躇すべき理由なし」と言明するにまで至った。反対理由は一貫して「時期尚早論」とされた。
特に選挙法の樺太への施行が朝鮮、台湾在住民を刺激しその統治に支障をきたす可能性があると考えられていたからだとされる。
'25当時の樺太住民は、16万島民中、先住民族が3千人位であり、それ以外は全て内地からの移住民であった。このことから、先住人民が多数抱擁する台湾や朝鮮とは異なり、純然たる内地の延長であった。
また、自治制度や戸籍法もあり、徴兵令や内地以上の国税といった国家への義務行為がありながら、権利行為に至っては却て閑却されて居る。しかも変態的自治制度の伊豆七島や千島列島は参政権があった。更に北海道に居住しているアイヌ人は選挙権を持っていた。
樺太参政権問題が解決できない状況時に、樺太の内務省管轄問題が発生する。参政権獲得のための「自治制」改正を唱える傍らで 「樺太が植民地扱を受けて拓殖省の管下にある方が利益であるか、あるいは「内務省の管下に移され(中略)総合行政の主要なものを維持し、事実に於て植民地としての特恵を維持し、他方に於ては内地延長政治の特権を享受する方が利益であるか」、と路線を絞り切れない状態が続いた。
しかも比較されるのは「植民地」か内務省移管かではなく、あくまで「植民地」か「条件付」移管かだったのである。もっとも「条件付」云々を別とすれば 「民権伸張」のため「内務行政に移」すべきか「開発・拓殖」のため「殖民地並の制度、すなわち総合行政・特別会計を固守するかという「痛し痒しのヂレンマ」は『樺日』に限らず樺太住民が直面したものだったといえよう。
樺太のその後は、'42.9.1東条英機内閣は閣議において大東亜省の設置と共に「樺太ハコレヲ内地行政ニ編入スルコト」を決定した。これ以後、現在確認できる最初の「内地編入」案は、10月13日に拓務省が作成した「樺太内地編入ニ伴フ行政財政措置大綱」だが、この中で樺太庁は「北海道庁ニ準ズル独立官庁」とされると共に、鉄道・逓信行政の各主務省移管、特別会計廃止、地方費会計設置などが立案された。
同.11.1拓務省の廃止と大東亜省の設置に伴い樺太庁が内務省へ移管される。'43.4.1樺太が内地へ移管され北海地方へ編入される。樺太内地編入ニ伴フ行政財政措置要綱として、'44.1.20閣議決定された。
'45.8.9ソ連が侵攻(樺太の戦い)。終戦後、マッカーサーは一般命令第一号を発令し、樺太をソ連占領地とすることを命じた(米英ソの密約のヤルタ協定に基づくものとされる)。
'46.1.29 GHQ命令で樺太の日本の行政権が停止され、同.2.2ソ連は南樺太・千島列島を南サハリン州とし、これをロシア共和国ハバロフスク地方に編入し、現在に至る。
ただし、サンフランシスコ講和条約で日本はソ連に樺太を譲渡することを決めてはいたが、ソ連と調印を取り交わしていないため、あやふやになっている(よって、地図帳では白抜きになっている)。
<「戦前期樺太における日本人の政治的アイデンティティについて」塩出浩之>
*墓石は洋型「沖島家之墓」(右刻み)。左右に墓誌がある。沖島金蔵から始まり、全員の俗名の上に十字が刻む。沖島鎌三は右側の墓誌に刻む。
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