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おがわ ひろし

小川 弘

おがわ ひろし

1895(明治28)〜 1939.10.4(昭和14)

大正・昭和期の海軍軍人(大佐)

埋葬場所: 20区 1種 29側

 広島出身。広島呉中学校を経て、1917.11.24(T6)海軍兵学校卒業(45期)。'29(S4)海軍大学校甲種卒業(29期)。同期に鳥居卓哉(後に少佐:8-1-7)らがいる。学生時代に通商保護に関する研究を行った。 この研究は、馬場良文に継承され、'32私案『対米戦時通商交通保護策に関する研究』を纏めた。同私案は、戦時所要資源量及びその運搬に必要な船舶を見積もり、その作戦上保持すべき通商交通路及び保護すべき海域を設定し保護兵力を算定していたという。
 '31.12.1第1艦隊兼連合艦隊参謀などを務め、少佐となった。'39鹿屋航空隊司令副長に就任。司令長は大林末雄大佐。同.8 第一連合航空隊は支那方面艦隊の指揮下に入り、三度出動命令が下った。 重慶に国民政府が移ったため、四川省の奥地にある重慶まで陸上進攻ではたどり着くことが不可能となったため、海軍中攻による陸上攻撃が必要となったためである。
 同.9.6一連空司令部と木空・鹿空飛行機隊は各隊24機で漢口に進出、日華事変に参加。途中の小都市を爆撃しつつ、9.28、29重慶周辺飛行場を爆撃、9.29、30木空9機は重慶に、9機は遂寧に進んだ。 10.1、2木空は成都の飛行場を爆撃。しかし、翌日より中国軍からの痛烈な反撃を受ける。10.3 鹿空飛行機隊へ内地から補充される飛行機を出迎えるため、戦闘指揮所に司令官以下の幕僚、木空・鹿空幹部が参集していたところ、午後2時35分、突然中国空軍のSB中爆9機が高度6,000mより約50個の爆弾を投下。 この奇襲攻撃により、小川は左大腿部爆弾破片性切断創、右大腿部爆弾破片創兼瓦斯壊疽と診断され、左足は膝関節以下を失い、右足にも爆弾の破片で負傷。これらの傷の感染でガス壊疽(えそ・えし:筋肉が壊死を起こす致死性の疾患)を起こし、当時の医療技術ではどうすることもできず急逝。享年44歳。二階級特進し大佐となった。
 なお、この奇襲攻撃で小川以外にも、木空の石川淡副長、一連空航空参謀の鈴木剛敏少佐も戦死。木空の森永良彦飛行隊長は下顎骨粉砕の重傷を負い数日後に戦死。その他士官・下士官の戦死、重軽傷多数であった。この中に、後に海軍最後の大将となる塚原二四三(22-1-76)も司令官としており、左腕切断の重傷を負っている。

<日本陸海軍航空隊総覧>
<木更津海軍航空隊隊史>


 


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