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おちあい かんじ

落合完二

おちあい かんじ

1888.10.5(明治21)〜 1980.7.25(昭和55)

大正・昭和期の実業家(八洲電機)

埋葬場所: 16区 1種 1側

 岡山県後月郡西江原町神戸(井原市西江原町)出身。落合藤市の4男として生まれる。4歳の時に父が亡くなる。落合習軒(素一)は兄。同郷の先輩に木彫家の平櫛田中(16-1-5)らがいる。
 興譲館で漢学を学ぶ。津山中学校(県立津山高校)の頃、大阪の豪商へ養子に出されたが、学問をしたい一心で実家に戻る。第六高等学校を経て、1917(T6)東京帝国大学法科大学英法科を卒業。
 久原鉱業に入社し鉱山経営に触れ、後に日立製作所に移る。大会社ゆえに自分の思うことができず独立を決心。1932(S7)退職後、朝鮮に渡る。京城落合鉱業所、日本黒鉛鉱業をそれぞれ設立。景気が悪い時期であったが「金」に目を付け、金相場で儲けたお金で次々に鉱山を買い、最盛期には8ヶ所の鉱山を経営する。事業は順調に進んでいたが、戦争が始まり終戦時には殆どの財産を失った。
 終戦後本土に戻り、友人の助けを得て資金をつくり、'46.8(S21)東京神田に「八洲電機商会」を創業。八洲電機の「八洲(ヤシマ)」とは、世界に通用する会社を築きたいとの思いから、古事記や日本書紀に記されている、日本国の古称、八つの島の『大八洲』に由来して名付けた。日立製作所と特約店契約を結び、日立製品を一手に引き受けることで会社を大きくしていった。
 '56.12 本社を港区芝田村(新橋)に移転。'60 株式会社に改組し「八洲電機株式会社」に商号変更。その後も、サービス部門を分離し別会社をつくるなど、全国や中国に連絡所を開設して規模を大きく発展させ、電機技術商社を確立していった。
 '64 社長を息子の落合尚(同墓)に譲り、会長に就任。その後、'97(H9)孫で尚の長男の落合憲が3代目社長となる。日立製作所および日立グループの国内最大の特約店として、半導体から重電機まで幅広い商品を扱い、設置工事や保守も手掛けるなど事業を拡大し現在に至る。
 郷里の母校の井原市立西江原小学校に、'71、'73 百万円を寄附。'72 これに伴い落合賞を創設。小学校6年間で勉学やスポーツ等によく努力した児童に与えられる賞と呼ばれ、'86 興学賞・奨励賞に改正し制度を引き継いだ。享年92歳。

<岡山県人名事典>
<西江原の偉人伝>
<講談社日本の企業がわかる事典など>


墓所 落合完二社長像 伊集院家之墓

*墓石は和型「落合家之墓」、裏面は墓誌となっている。最初の刻みは完二の前妻の刻みで始まる。「貞松院清室慈久大姉 俗名 落合久代 落合完二の妻也。杉浦義言の長女、大正七年四月落合家に嫁し、翌八年十二月三十日没す。享年二十五歳」と刻む。完二の戒名は知無量院修徳浄完大居士。後妻はテル(S55.12.20没・享年83才)で戒名は圓鏡智院慈室浄照大姉。八洲電機を継いだ長男の落合尚の戒名は浄光明院泰道賢尚居士。尚の妻は照子(H25.5.17没・享年85才)で戒名は浄蓮華院泰室映照大姉。なお墓石の右側にも独立して墓誌が建ち、冒頭に「平成八年父母十七回忌 建墓誌以祈冥福 平成八年八月八日 落合 尚」と刻む。墓所右手前に「落合完二社長像」が建つ。墓所左側に古い和型「伊集院家之墓」も建つ。裏面が墓誌となっており、伊集院金次から刻みが始まる。金次のところには「明治十年 西南之役 西郷南洲翁と共に出陣し、四月十六日肥後国大津戦争に於て戦死す。時年二十」と刻む。金次の妻の倉於清(M26.11.10没)、生後六カ月で亡くなった一雄(恵一の子)、他に伊集院恵一(T4.12.11・享年55)、恵一の妻のタメ(T10.12.31・享年71)が刻む。落合家と伊集院家の関連性は不明(妻方と推測する)。


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