東京出身。石岡定行・鶴(共に同墓)の長男。日本生命保険会社医員となる。1892(M25)医員の待遇問題で離れる。共済生命(安田生命の前身・現在は明治安田生命)に勤める。
'02退社し、一時開業をするも、'04日本初の相互会社形式による生命保険会社第一生命保険相互会社創業者の矢野恒太に誘われ第一生命に入る。支部長を矢野恒太、副支部長は石岡と秦佐八郎(14-1-21-15)が務めた。
第一生命では「徐々に急がん」というのが最初からの合言葉であった。従来の同業他社とは異なり、従来の生命保険観であった「死ななければ損」式であったのに対し、「長命無損害」を表に打ち出し、加入者への配当金を契約年数に比例して配分するなど、当時としては斬新な、現代の生命保険システムに近いものを用いた。
また、それまでは外国の生命表を使用していた会社がほとんどであったが、日本の死亡率の統計から日本人向きの生命表を作成、それを基礎に合理的な保険料を算出した。
第一生命は当初規模も小さく、保険契約高も少なかったが、最初から剰余金を出すことができ、5年目から三分の配当を実行したため、加入者が増えただけでなく、他の保険会社も対抗するために利益金の配当をせねばならなくなった。
石岡は第一生命の実質的ナンバー2の存在であったが、矢野の経営方針のひとつである「使用人は重役にせぬ事」を貫き、'38矢野恒太が会長となり、非生え抜きで逓信省出身の石坂泰三(13-1-1-9)を自身の後継者として社長に任命した。
生命保険業は人的信用が事業の基礎を成すものという考えから、長く会社にいて事務に精通しても、重役として尤もなるものとは全く資格が違うとの考えからであった。
石岡は日本保険医協会(日本保険医学協会・日本保険医学会)に長く携わっており、'02(M35)〜'09(M42)・'15(T4)〜'22(T11)幹事、'23(T12)〜'29(S4)副会長、'30(S5)〜'38(S13)会長(第2代)を務めた。
この間の幹事時代に抜けている時期、'10〜'14ドイツに留学し、イエナに師事。外傷性肺炎の実験的な貢献を成した。享年86歳。