伊予国温泉郡小坂村新場所(愛媛県松山市日の出町)出身。松山藩士の五百木作平(同墓)の子として生まれる。号は飄亭(ひょうてい)、犬骨坊、白雲。
1885(M18)松山県立医学校に入り、漢学塾千舟学舎にも入る。二年後、医師の前期試験に合格したため、大阪に出て今橋の町医者のもとに寄寓し、小野田医師の医務を手伝いしながら勉学に励んだ。若干19歳にして後期試験に合格し医師開業の免状を取得した。しかし、未成年者であるため開業ができる年齢までドイツ語の勉強をすることにし、1889上京して東京学生寮でドイツ語の研究に専心した。
東京では久松家の常盤会寄宿舎に入舎した際に、新海非風(にいのみ ひふう:俳人)と同室となった。非風から誘われ同郷の俳人の正岡子規の下宿に行き意気投合。子規が寄宿舎に再入室してからは三人同舎になり、子規から俳句の指導をうけ俳句研究、小説創作、文学を論じあうなど交わりを深めた。この頃、子規より「飄亭」(ひょうてい)の号を名付けてもらう。
1890.12 徴兵に合格して陸軍近衛兵として入隊。非風は砲兵に入隊したが、二人は休日ごとに子規を訪ねて三人で一題100句などの試みなど句作にふけった。子規から「作るから上達する、上達するから面白くてたまらなくなる」と褒められ、子規が新聞「小日本」の編集主任になったのを機会に、1892 除隊後、新聞『小日本』に入社し記者として子規を助けることになった。
1894 日清戦争で召集され第5師団の看護長として従軍。その際、子規に勧められ「犬骨坊」という筆名で従軍日記を新聞『日本』に寄せ、一年間連載した。文章の中に俳句を入れたことが好評で文名を高めた。なお、触発された子規も記者として従軍したが、1895.5 帰国途上の船中で大喀血して重態となる。結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断され以後床に伏す日が多くなった。
同.12 帰朝後、子規の協力もあり新聞『日本』に入社。貴族院担当の新聞記者として健筆をふる、政治評論家の陸羯南と活躍。子規が病床に伏せたこともあり次第に文学から政治へと関心が移る。貴族院議長になった近衛篤麿の知遇を得てからは、その幕下に参じ片腕となっていく。1900 近衛篤麿の国民同盟会に参加し、同会の機関誌『東洋』の編集に協力。中国の保全の主張、対アジア対策をあきらかにした。1901『日本』新聞社を近衛が受け継いでからは復社し編集長となる。対外硬派として論を展開した。
'02.9.19 俳人の恩師の正岡子規が34歳で死去。次いで、'04.1.1 近衛篤麿が中国に渡航した際に感染した伝染病アクチノミコーゼ(放線菌症)が原因で40歳の若さで病死。五百木はこのとき34歳。盟主を失った悲しみに耐え、近衛の意志を奉じて国事に奔走する決意をする。
退社し、桜田倶楽部同人として対露同志会に参加し日露戦争開戦に影響させた。'05.9.5 日比谷公園で日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する国民大会を河野広中、小川平吉、大竹貫一らとともにひらき、日比谷焼き討ち事件を主導したことで逮捕されるが証拠不十分で無罪となった。
'13(T2)内田良平(14-1-9)その他と対支連合会をおこし、'14 国民義会を結成。'15 大隈内閣の密命をうけて満州にはいる。'19 外相官邸爆破事件に連座し、多年の日記を没収された後、俳句でこれに代え、柳原極堂が主宰する俳誌『鶏頭』に句日記を連載、秀吟を残した。
1928(S3)大アジア主義を唱えて雑誌『日本及日本人』の政教社社主となった。近衛篤麿の息子である近衛文麿の成長を願い、近衛内閣誕生を陰から支えた。'30 ロンドン海軍軍縮条約反対運動、'35 国体明徴運動に参加した。'37.4 体調を崩し春から病床にあったが、同.6.4 近衛文麿内閣が誕生し多年の夢が実現したことの喜びから新首相に祝句「五月晴の不二の如くにあらせられ(飄亭)」を贈った。同.6.11 近衛首相が直々にお見舞いに来る(この様子は新聞一面を飾る)。その三日後に逝去。享年66歳。辞世の句は「客断えて風鈴の音一しきり」。没後、遺著『飄亭句日記』(1958)が刊行された。なお『日本及日本人』は国分青崖(13-1-50)が引き継いだ。
<コンサイス日本人名事典> <朝日日本歴史人物事典> <講談社日本人名大辞典> <まつやま 人・彩時記「俳人・ジャーナリスト・国士 五百木飄亭」上岡治郎 など>
第426回 正岡子規と近衛篤麿 2人の師匠 日比谷焼き討ち事件首謀者 五百木良三 お墓ツアー
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